石川啄木ゆかりの地
啄木小公園〜石川啄木の像〜
この辺りは、かつて砂丘があって、ハマナスが咲き乱れていた。啄木が好んで散歩した所であり、歌集『一握の砂』に「砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日」と歌われている。詩集『あこがれ』を左手に持ち、もの思いにふける啄木の座像(本郷新作)は、昭和33年(1958年)に建てられた。隣の石碑は、後年啄木の墓を訪れた詩人西条八十が啄木に捧げた自筆の歌碑である。 啄木が函館に来たのは明治40年(1907年)5月のことで、7月には離散していた妻子を呼び寄せ、久しぶりに親子水入らずの生活を営んだ。 弥生小学校の代用教員を経て、函館日日新聞の記者となって間もなくの8月25日、函館は未曾有の大火に襲われた。 新聞社も焼失し、啄木は職を求めて、妻子を残したまま函館を去った。 函館滞在の4か月余りは、彼の一生のうちで、最も楽しい期間であったといわれている。
函館市 |
潮かをる北の浜辺の |
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砂山のかの浜茄子よ |
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今年も咲けるや |
啄木という不出世の歌人がいた。ハマナスが咲く砂丘があった。明治の頃、砂丘は32万u(11万坪)海抜40mあった。 この一帯は大森町、高森町、砂山町に分けられ、砂山の一番盛り上がっている所が砂山町で、この一帯はスラム街であった。昭和に入り住民はスラム街のイメージを嫌い、昭和13年に日之出町と改めたのである。それは、海と砂浜から昇る朝日の美しさからか、それとも生活の豊かさに希望をもとめての日之出だったのか、今ではわからない。自生のハマナスが咲き乱れ、幾多の時代が変わり、人々も通り過ぎていった。啄木もその一人である。 |
眠れる君に捧ぐべき |
矢車草の花もなく |
ひとり佇む五月寒 |
立待岬の波静か |
おもいでの砂ただひかる |
捧啄木 西條八十 |