蕉 門

indexにもどる

宗波

隠遁の僧侶。滄波。生年不詳。

深川芭蕉庵の隣に住んでいたようだ。

   隣菴の僧宗波たひにおもむかれけるを

ふるすたゝあはれなるへき隣かな


 貞亨3年(1686年)、芭蕉は宗波が旅立つにあたり、鳴海の下里知足に世話してくれるよう依頼している。

追啓申上候。此僧二人、拙者同庵に而御座候。上京修業に被出候而、長除(途)草臥可申候間、二三日御とめ休息いたし通候様に奉頼候。

下里寂照宛書簡(貞亨3年3月16日)

 貞亨4年(1687年)8月14日、芭蕉は曽良・宗波を伴い鹿島神宮に向け江戸を発つ。

 いまひとりは、僧にもあらず俗にもあらず、鳥鼠(ちょうそ)の間に名をかうぶりの、鳥なき島にも渡りぬべく、門より舟に乗りて、行徳といふところに至る。舟をあがれば、馬にも乗らず、細脛(ほそはぎ)の力をためさんと、徒歩よりぞ行く。


大儀寺の連句碑


雨にねて竹起かえる月見かな
   曽良

月さびし堂の軒端の雨しずく
   宗波

長勝寺の連句碑


塒せよ和ら本す宿の友すゞめ
   松江

  あきをこ免たるく年の指杉
   桃青

月見んと汐引のぼる船とめて
   ソラ

 貞享4年(1687年)10月末、芭蕉は「笈の小文」の旅に出る。宗波は餞別の句を贈っている。

我夢を嚔(ハナヒ)ん霜の草枕


 貞亨5年(1688年)、宗波と杜国は伊賀上野に芭蕉を訪ねている。

元録元辰のとし、此春武藏野の僧宗波、美濃杜國伊賀に來り、杜國は萬菊と改名して、和州行脚に伴ふ。


 元禄4年(1691年)、曲水は芭蕉庵の跡を訪ねて宗波に逢った。

其内曲水状、予住捨し芭蕉庵の旧き跡尋て、宗波に逢由。


 元禄7年(1694年)、濁子・野坡らと句会。

   雨 中

傘におし分見たる柳かな
   芭蕉
 わか草青む塀の筑(つき)さし
   濁子
おぼろ月いまだ巨燵にすくみゐて
   涼葉
 使の者に礼いふてやる
   野坡
せんたくをしてより裄(ゆき)のつまりけり
   利牛
 誉られてまた出す吸もの
   宗波

宗波の句

夕立や箕に干ス粮(かて)のしばしだに


落葉たく色々の木の煙かな


冬籠り炭一俵をちからかな


我身には木魚に似たる月見哉


我夢を鼻ひ霜の草まくら


もろこしや葉をもり兼て三かの月


蕉 門に戻る