天正9年(1581年)、堀秀政は織田信長から長浜城主2万5000石を与えられた。 天正13年(1585年)から5年間、山内一豊は長浜城に在城。 |
長浜はもと今浜いい、「バサラ大名」として有名な京極道誉(佐々木高氏)が室町時代の初め頃に出城を築き、それが長浜城の元と伝えられる。以後、家臣の今浜氏・上坂氏が守将として在城したといわれている。 姉川合戦の後、その功によって湖北三郡を与えられた羽柴秀吉は、天正2年(1574年)頃小谷(湖北町)から当地に城下町を移し、地名を長浜と改め、ここに城を築いて数年間居城とした。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦では、ここを根拠地として大勝し、織田信長後継者としての立場を確立した。秀吉の家臣である山内一豊も天正13年(1585年)から5年間在城したことがある。 江戸時代になって、慶長11年(1606年)には徳川家康の家臣である内藤信成が入城し、その子信正が摂津高槻に移るに至って廃城(元和元年・1615年)となった。 建物及び石垣の大半は、彦根城の築城に際して移され、その天秤櫓(国・重文)や三重の隅櫓は当城の遺構といわれている。また、当市内の大通寺台所門(市指定建造物)、知善院表門(市指定建造物)も当城の遺構として名高い。この豊公園は「本丸」という小字名でよばれ、城域の中心部にあたるところから貴重な史跡として昭和37年に市の指定文化財として指定されている。 城跡の遺構は、これまでの発掘調査によって石垣や掘立柱建物跡、礎石建物跡さらには舟着場らしき石組遺構等が一部発見されている。しかし、調査は部分的であり、全体の縄張や細部の構造については、未だ解明されていない。
長浜市教育委員会 |
長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩の途中に観音寺(米原市朝日町)へ立ち寄りました。汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。秀吉公がもう一杯頼むと、少年は先ほどよりも少し熱いお茶を、茶碗に半分ほど差し出しました。そこで秀吉公は、さらに一杯所望したところ、今度は小さな茶碗に熱いお茶を入れて出しました。秀吉公は、茶の入れ方ひとつにも気を配る佐吉少年を気に入り、召し抱えました。この少年が後の石田三成公で、この話は「三献の茶」として、今も語り継がれています。 三成公は、ここから5キロメートル東の長浜市石田町の土豪の子として生まれ、今も出生地辺りには官名にちなんだ治部という小字が残っています。 また観音寺には、茶の水を汲んだと伝わる井戸が残されています。 |