旅のあれこれ文 学


中村汀女

『汀女句集』

昭和19年(1944年)、『汀女句集』刊。

湖畔抄

 江 津

 今は熊本市内だけれど、江津湖はやはり私にはもとの江津村がふさはしい。湖畔の人たちは東遥かに阿蘇の山々を仰ぎつゝ、田植、麦刈にいそしみ、その間に藻刈り舟を浮べ、夏に入る日は川祭の御神酒を湖に捧げる。私も朝夕湖を見て育つた。走る魚の影も、水底の石の色も皆そらんじてゐる。

父母尚在ます江津湖畔に私の句想いつも馳せてゆく。

大正7年

我に返り見直す隅に寒菊赤し

鳰葭に集りぬ湖暮るる


 横 浜

 結婚して国を離れ、子供三人、その間私はすつかり俳句を止めてしまつた。大蔵省の官職にあつた夫に随ひ、大阪から横浜に来た。西戸部の税関官舎からは野毛山が近くて、夕刻までの小閑をよくひとりで出かけた。横浜の町はどこからも船が見え、私は船のある港の風景が好きだつた。そして丸十年ぶりに句作にかへつて、丸ビルで虚子先生にお目にかゝつり、星野立子さんにお会ひした。それからはや十余年の親しいお交りとなつた。

  昭和7年

起重機の見えて暮しぬ釣荵(つりしのぶ)

街の上にマスト見えゐる薄暑かな

さみだれや船がおくるる電話など

   初めて玉藻句会に出席。

このときのわが家しんと蝉高音

   野毛山公園 二句

柳散るあるじは鳥の紙芝居

噴水のましろにのぼる夜霧かな

   三溪園 三句

とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな

りいと無く虫のこもれる芒かな

いつ来ても園丁の居り末枯るる

  昭和8年

   帰省

麦の芽に汽車の煙のさはり消ゆ

たらちねのもとの冬木のかく太り

蜜柑むく初荷の馬の鼻がしら

   江津湖 五句

うき草のよする汀や阿蘇は雪

水を出る刈藻まさをや冬麗ら

麦の芽に艫の音おこり遠ざかる

枯芭蕉草生ふ水のあたたかく

ながれゆく水草もあり冬日暮る

蕗の薹おもひおもひの夕汽笛

  昭和9年

   七月七日、水竹居邸ホトトギス同人句会、久々
   の外出なり。

おいて来し子ほどに遠き蝉のあり

   玉藻吟行、虚子先生御臨席、横浜港内を巡り、
   長浜検疫場に赴く。 四句

春風に船は煙を陸に引き

忽ちに霞める船とこれもなり

船室のカレンダ土曜春の風

春風に朝より掲げ出帆旗

   歳末銀座 三句。立子さんと歩く。

歳晩の新橋たもと掘りかへす

橋裏の波の暗さよ寒烏

橋裏をくぐりしものへ寒烏

  昭和10年

   榛名湖、湖畔亭 二句

秋雨をさびしと雲や榛名富士

長編の序編の雑誌秋の宿

  昭和11年

   旧芝離宮恩賜庭園

汐入りの池あたたかし寒椿

   主人仙台税務監督局長に転じて赴任し、此処山
   王の家も学期末を待つて別れんとす。

雪降りし日も幾度よ青木の実

  昭和13年

   高木晴子さんを函館に見送る。

秋雨の衰へしかど早や発ちし

  昭和14年

   靖国神社臨時大祭

お遺族や余花の守衛にねんごろに

   小石川後楽園 二句 玉藻句会

美しき砂をすぐりて蟻地獄

わが心いま獲物欲蟻地獄

  昭和15年

   赤坂山王祭、真砂子、立子さんと

乳飲ます祭人形のしぐさかな

   八月、主人造幣局長に転じ大阪へ向ふ。二句

朝顔や赴任きまりて色多く

新涼やわがなす用のはたとなく

   夏休となり子供等と大阪に赴く

秋風や留守の用意と旅支度

   局長官舎 二句

明治より古りし官舎や蚊喰鳥

鏡台も官舎の備品蚊喰鳥

  昭和16年

   二月下旬、立子さん母君と来阪、造幣局官舎に
   て大阪玉藻句会

東風の波舳走りて艫沈み

水温む筧も松も砂を出で

下萌や石は大地に根を沈め

俥屋のすぐうなづきて東風の風

   柴又帝釈天 三句。立子、浜子さんと。

堀割に思ひ思ひに春の水

春水や乱るる葦にわかちなく

中村汀女の句

昭和25年(1950年)

つつじ咲く母の暮らしに加はりし

夏雲の湧きてさだまる心あり

『都鳥』

昭和38年(1963年)

雪しづか愁なしとはいへざるも

『紅白梅』

昭和40年(1965年)

柳散る作の暮しの川添いに

『薔薇粧ふ』

昭和41年(1966年)

秋風に向ひ投げしむ運の石

『紅白梅』

昭和57年(1982年)

薫風や切り幣五彩夢ならず

『軒紅梅』

昭和58年(1983年)

   四月十三日、首相の「桜を見る会」新宿御苑に参ず

花の下なり添へくるる手の柔らかや

『軒紅梅』

昭和59年(1984年)

   日本芸術院賞受賞式

薫風に着御や四辺音を絶え

『軒紅梅』

昭和62年(1987年)

   世田谷区名誉区民の章を受く

五十年とは秋芽の伸びの庭の木々

『芽木威あり』

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