明治40年(1907年)8月15日、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人は江津湖で船遊びをする。 |
水前寺の後に画津湖がある。水前寺の水が落ちて大小二つの湖水と成つたものだ。松村氏は予を湖畔の旗亭勢舞水楼(せんすいろう)に案内した。
「五足の靴」(画津湖) |
大正4年(1915年)9月24日、大同江画舫進水式。 |
かねて『ホトトギス』二百号記念事業の一として建設中の大同江 画舫漸く成る。九月二十四日。進水式。 旧暦八月十六日。大同江画舫進水式ある由を聞きて。 秋水に浮べていかに赤からん 大汐の来るごとに汝(な)が齢かな その上に飛ぶ雁あらば我と身よ 画舫を発起したる人鯨岡濱太郎氏を追憶す。 満月に缺けたるものゝ一人かな |
昭和3年(1928年)10月9日、高浜虚子は江津湖を訪れる。 |
十月九日。朝、汽車にて熊本に向ふ。十一時熊本著。草餅、坡牛、 是山、田々子等に迎へらる、故寸七翁の父君金十郎翁並に義妹き ま子も出迎の中にあり。熊本城及び水前寺を見物して画津花壇の 俳句会に臨む。会者、夕陽斜、木母寺等三十名。 縦横に水の流れや芭蕉林 |
昭和27年(1952年)11月13日、高浜虚子は星野立子と江津湖を訪れる。 |
画津荘を去る前夜 この闇の芭蕉林にも名残あり |
熊本へ。江津荘泊。 十一月十四日。江津湖畔湖の中村汀女さんの母君を訪ね、 楽しく話し合ふ。 石蕗も咲き静かな庭と帰り告げん |
虚子翁は大正四年、昭和三年、同二十七年、同三十年と四回熊本市に遊んだ。この句は二回目の昭和三年六月九日の作である。熊本市の東郊出水町に江津湖という小さな湖がある。湖畔の建物は当時料亭江津花壇と呼ばれたところで、今は井関農機会社熊本製作所江津荘という寮舎になって居る。井関の本社は松山市にあり、社長井関邦三郎氏は虚子翁と同郷のよしみから、昭和二十九年六月ここにこの句碑を建てた。碑の周囲林泉の水中には南国らしい自生の芭蕉の大株が、のびのびと多くの新葉をひろげて居る。 碑は高さ約九尺、幅三尺、厚さ二尺、熊本市の西郊金峯山から運んで来た自然石である。(熊本・阿部小壺氏報) |
昭和30年(1955年)5月14日、高浜虚子は飛行機で板付空港(現福岡空港)に入り、二日市市の玉泉閣を訪れた。翌15日柳川、翌16日は熊本の江津湖を訪れた。虚子は中村汀女の家を訪ねている。 |
蒲團あり來て泊れとの汀女母 五月十六日 熊本、江津荘。芭蕉林。 |
汀女さんのお母様は父より半年上のお方である。九州の旅の折、江津湖畔のお家を訪ねた。その頃の父は元気であつた。お母様も大変元気でいらつしやつた。蒲団が十分にある故お泊りなさい、としきりにすゝめて下さつた。
『虚子一日一句』(星野立子編) |
四月十五日 伊丹より熊本へ空路 江津湖を廻る 山 路泊り 初燕それも越冬せしものか 春水の濁りにひそむものあまた 真菰枯れ伏して江津湖の春すゝむ 蝶多し芭蕉林へも抜けて来る |
十一月六日 勉強会 熊本江津荘 水葱疊枯蘆原と別にあり 大四ツ手休めあり秋深きさまに 斯く芭蕉瑞々しさの江津の秋 江津に棹す舟は静かに秋深し |
明治33年(1900年)4月11日、中村汀女は熊本県飽託郡画図村(現:熊本市中央区江津1丁目)に生まれる。本名は破魔子。 昭和9年(1934年)、ホトトギス同人となる。 昭和22年(1947年)、俳誌『風花』を創刊・主宰。 昭和54年(1979年)、熊本市の名誉市民となる。 昭和63年(1988)9月20日、没。 |
文豪夏目漱石は、明治29年4月第五高等学校(現熊本大学)講師として来熊、33年まで滞在した。東大出の厳格な英語教師として熱心に学生を指導する中、余暇を利用して俳句を楽しみ、1000句に近い作品を残している。漱石は親友の正岡子規を俳句の師と仰ぎ、子規の写生説を基本にしながら、その博識、豊かな連想を生かして自在に俳句を作り、近代の知識人の内奥を伝える独自の俳句をの世界を詠出している。 この句は、明治30年の作で、かつては江津湖でもよくみられた「四つ手」網漁の一コマで、網の中で白魚がふるい寄せられ、全身ではねる時の小さな活力に注目している。漱石には小さな可憐なものへの愛着が強かったようだ。
‘96くまもと漱石博推進100人委員会設置 1997年3月 |
熊本近代文学館は改修工事のため、平成26年(2014年)7月から27年度後半まで休館。 |