大正初年、釈宗演と佐佐木信綱は原三溪邸に相見、釈宗演は佐佐木信綱に以心伝心の一首を示されたそうだ。 |
三溪園の中でもっとも大きい、延べ床面積約950平方メートルの建物で、その名前は鶴が飛ぶ姿を思わせる外観によるといわれています。 原三溪が自らの住まいとして建て、以降20年に及ぶ三溪園の造成はここから始められました。また、ここは横山大観など日本画家たちが集い、滞在して絵を制作するなど、近代の日本文化をはぐくんだ文化サロンでもありました。哲学者の和辻哲郎の著作「古寺巡礼」の序文には、京都・奈良への旅をここから出発したことが記されています。 現在の建物は、震災や戦災などをへて改築されていたものを平成12年(2000年)の修復工事により明治35年当初の姿に戻したものです。 |
建築年:宝永5年(1708年)頃 移築年:大正時代 |
京都・平安神宮近くにある西方寺から移築された江戸時代の門です。 原三溪が所有していた時代、一般に公開されていた外苑に対して、内苑はプライベートで使われていた庭園でした。その入口として置かれた建物がこの御門です。戦前、この奥にある臨春閣は豊臣秀吉が京都に建てた桃山時代の聚楽第の建物とされ、通称「桃山御殿」と呼ばれていたため、この門も「桃山御門」の名で親しまれていました。 |
原三溪自身のプランにより、同郷の岐阜県の大工・山田源市に造らせた隠居所の建物です。 屋根は桧の樹皮を使った桧皮葺、庇の部分は薄い板を使った柿(こけら)葺きとし、室内には関西で一般的なサイズの京間畳が敷かれ、隣接する臨春閣に合わせた造りとなっています。選び抜いた材料と伝統の工法による茶室の様式などを取り入れた数寄屋造の様式ですが、イスとテーブルの生活を意識した洋間の談話室や電話室、シャワーのある浴室など近代的な要素もみられる住宅建築です。 |
建築年:室町時代康正3年(1457年) 移築年:大正3年(1914年) |
三重塔は釈迦や聖者などの骨を納めるための寺院建築です。 この三重塔は現在の京都・木津川市の燈明寺から移された室町時代のもので、三溪園の中で最も古い建物です。この塔の存在は、その後に進められた内苑の庭園造成のうえで重要なポイントとなりました。内苑にある建物の多くは、その室内から美しい三重塔の姿が眺められるよう、配置の工夫が見られます。 |
かつて三渓園を訪れたインドのノーベル賞文学者タゴールや芥川龍之介らによって書きしるしされた茶室。当時はいつでも麦茶がふるまわれたという。 芥川は大正4年(1915年)の初秋、ここでの印象を ひとはかりうく香煎や白湯の秋 と俳句に残しています。 |
茅葺の屋根と厚めの板を使った栩(とち)葺の屋根を組み合わせた素朴な建物で、この名前は内部に置かれていた横笛の像にちなみます。 横笛は平安時代の末に平清盛の娘の建礼門院に仕えた女性で、斉藤時頼という武士との結ばれることのなかった恋の話が平家物語に伝えられています。 この横笛の像は時頼から送られた恋文を使って横笛自らが作ったものとされ、縁結びの像として祈願に訪れる人でにぎわいましたが、第二次世界大戦中の空襲により失われてしまいました。 |
建築年:江戸時代後 移築年: 昭和35年(1960年) |
飛騨白川郷の一部、現在の高山市荘川町にあった、合掌造の民家建築です。 ダムの建設によって水没する地域にあったため、三溪園に移築されました。 玄関や書院造の座敷など立派な接客の空間を備え、寺院建築などに見られる火灯窓と呼ばれる火炎型の窓が付けられるなど、農民ながら飛騨の三長者の一人といわれた矢箆原家の繁栄ぶりを伝える、現存する合掌造りでは最大級の建物です。屋内では、移築の際に飛騨地方から集められた民具が展示されているほか、囲炉裏には毎日火が焚かれています。黒光りした柱や梁、煙の匂いから白川郷の昔の暮らしを感じとれます。 |
三月三日。家庭俳句会。横浜、三渓園。 枯蓮の間より鴨のつゞき立つ 此湾を塞ぎて海苔の粗朶はあり 海苔粗朶の沖の方にも人立てり 湾の内浅瀬に立てる春の波 鴨の嘴(はし)よりたらたらと春の泥 |