明治36年(1903年)11月15日、東京府麹町区富士見町(現・東京都千代田区)に生まれる。高浜虚子の次女。高浜年尾の妹。 大正14年(1925年)4月25日、鎌倉彫職人の星野吉人と結婚。 |
四月二十五日。二女立子、星野吉人に嫁す。 ぼうたんや神二柱影さして |
大正15年(1926年)3月10日、最初の作句。 |
まゝ事の飯もおさいも土筆かな
『立子句集』 |
昭和2年(1927年)11月24日、ホトトギス婦人俳句会が生まれる。 昭和5年(1930年)2月、長女早子(のちの星野椿)誕生。 昭和5年(1930年)6月、初の女性による主宰誌『玉藻』を創刊する。 昭和6年(1931年)12月6日、高浜虚子は武蔵野探勝会で喜多院へ。星野立子等同行。 昭和7年(1932年)、妹の晴子を京都の旅に伴い、続いて松江へ。 昭和8年(1933年)6月16日、高浜虚子は旭川俳句大会のため北海道へ。立子同行。 昭和14年(1939年)5月18日、高浜虚子は仙台へ。19日、山寺に行く。20日、松島を舟で巡る。星野立子同行。 昭和14年(1939年)8月、星野立子は早子の夏休みに函館の高木一家を訪ねる。 昭和16年(1941年)6月1日、高浜虚子は満鮮旅行へ旅立つ。星野立子は鎌倉病院入院中で同行出来なかった。 |
五月三十日。新田義美、坂本和子、それに章子を伴ひ、「つばめ」 にて下阪。満鮮の旅に上る。行を伴にすべかりし立子病んで、鎌倉 病院入院。 旅のわれ病院の汝明易き |
昭和20年(1945年)3月末、星野立子は早子を連れて小諸に疎開。 昭和20年(1945年)4月14日、高浜虚子は立子と共に懐古園に遊ぶ。 昭和21年(1946年)11月18日、高浜虚子は秋月を訪れる。年尾・立子同行。 昭和23年(1948年)6月10日、高浜虚子は氷川丸に乗船。小樽へ。年尾・立子同行。 昭和24年(1949年)10月18日、高浜虚子は四国・九州の旅に出る。立子同行。 昭和26年(1951年)9月15日、高浜虚子は黄金丸に乗船。松山へ。年尾・立子同行。 昭和27年(1952年)11月8日、城島高原に虚子親子句碑の除幕式。虚子は年尾・立子を伴って臨席した。 昭和28年(1953年)10月6日、高浜虚子は立子と共に山中温泉へ。 昭和30年(1955年)5月、「詫びの旅」。 昭和32年(1957年)10月4日、高浜虚子は敦賀市の招待を受けて星野立子と敦賀へ。高木晴子は金沢から敦賀へ。 昭和34年(1959年)5月、虚子の跡を承けて、中村草田男 石田波郷と共に朝日新聞の俳壇選者となる。 昭和40年(1965年)4月8日、『虚子一日一句』発行。 昭和48年(1973年)11月30日、『句日記』T刊。 昭和49年(1974年)2月20日、『句日記』U刊。 昭和59年(1984年)3月3日、80歳で死去。 昭和59年(1984年)、星野椿は『玉藻』主宰を継承。 |
そよりとも風はなけれど夜涼かな | 立子 |
||||||||||||||||||||||||
千年の神燈絶えず去年今年 | 椿 |
||||||||||||||||||||||||
界隈のたらだら祭なる人出 | 高士 |
新涼の仏に灯し奉る | 虚子 |
|||||||||||||||||||
惜春や父の故郷に似しときけば | 立子 |
こゝに見る由布の雄岳や蕨狩 | 年尾 |
|||||||||||
大夕立来るらし由布のかき曇り | 虚子 |
|||||||||||
これがこの由布といふ山小六月 | 立子 |
大浪に静かな寺や夏炉守る | 立子 |
冬海や一隻の舟難航す | 虚子 |
夏炉守り寺守り雨の一日寒 | 年尾 |
この浜に立ちし虚子あり蝦夷の夏 | 汀子 |