江戸時代、吉井川の水運を利用して美作各地と備前金岡(西大寺)を結び、物資の大量輸送に活躍したのが高瀬舟であった。高瀬舟の運航には営業許可証となる船株が必要で、津山藩では54艘の船が輸送にあたっていた。 しかし、長岡船やや田原船など、他領の船も津山藩内の運航に加わることができたため、津山藩全体では、最多では186艘が輸送に携わっていた。 |
涼みにと 川辺へいづる 吾妹子に 蛍も添うて わたる石橋 |
のがれ来て くらすもよしや 吉井川 河原のほたる 橋のゆふかぜ |
谷崎潤一郎は津山藩松平家との縁で昭和20年5月15日に津山へ疎開する。 「はじめて見る町のすがた趣変りていと珍し」と日々吉井川のほとりを妻松子とそぞろ歩きを楽しみ良き短歌を残すも、その後、食糧事情の悪さから「生涯で一番みじめなくらし」にあえぎ7月7日には悲しい2首を残して勝山へと移る。 そして戦後に津山を訪れた棟方志功と共に「歌々板画巻」を出版し、その中に津山の歌を残している。「すばらしきロース肉」と作州肉をほめてくれた感謝と「卵一コなりとも手に入らない」生活に手を差し伸べられなかった後悔の念を込めて、津山人としてここに歌碑を建立する。
M&Y |
海の幸山のさち背負ひ妻恋ふとえそより来ます美作の国へ |
松子の妹重子の夫渡辺明氏が昭和21年正月元旦、北海道より勝山へ来たりし時に詠まれた短歌。 |
さすらひの群にまじりて鍋釜を負ひ行く妹をいかにとかせん わらぢ売る店屋の軒に家居する燕におとる身にしやはあらぬ |
柳散る 作の暮しの 川添いに |
昭和40年(1965年)、津山文化センター落成記念講演会に訪れたときの句。 昭和53年(1978年)、文化の日に設置。 |