2016年宮 崎

鵜戸神宮〜山頭火の句碑〜
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種田山頭火も訪れたという日南市宮浦の鵜戸神宮に行ってみた。

若山牧水も鵜戸神宮を訪れたようである。

 明治40年(1907年)7月21日、坪谷から延岡の鈴木財藏宛ての葉書で「明夜細島出帆、油津上り、鵜戸にも參りたくと存じ居り候、」と書いている。

鵜戸隧道を抜けると、新参道の右手に中村汀女の句碑があった。


秋風に向ひ投げしむ運の石

出典は『紅白梅』。昭和41年の句である。

昭和47年(1972年)5月、風花宮崎支部建立。

 大正3年(1914年)8月31日、長塚節は内海より海路鵜戸へ行き、9月1日、鵜戸神宮へ参拝。

   三十一日、内海の港より船に乘りて吹毛井といふところにつ
   く、次の日は朝の程に鵜戸の窟にまうでゝ其の日ひと日は樓
   上にいねてやすらふ

手枕に疊のあとのこちたきに幾時われは眠りたるらむ

   懶き身をおこしてやがて呆然として遠く目を放つ

うるはしき鵜戸うどの入江の懷にかへる舟かも沖に帆は滿つ

「鍼の如く 五」

鵜戸神宮楼門


鵜戸神宮御由緒

 主祭神 日子波瀲武鵜(※「盧」+「鳥」)(※「茲」+「鳥」)草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)

 当宮のご創建は、第十代崇神天皇の御代と伝えられ、その後第五十代桓武天皇の延暦元年には、天台宗の僧光喜坊快久が、勅命によって当山初代別当となり、神殿を再興し、同時に寺院を建立して、勅号を「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」と賜わった。

 また宗派が真言宗に移ったこともあり、洞内本堂の外本堂には六観音を安置し、一時は「西の高野」とうたわれ、両部神道の一大道場として、盛観を極めていた。

 そして、明治維新とともに、権現号、寺院を廃し、後に官幣大社鵜戸神宮にご昇格された。

 母君の豊玉姫が御子の育児のため、両乳房を御神窟にくっつけて行かれたと伝える「おちちいわ」は今もなお絶え間なく玉のような石清水を滴らせて安産、育児を願う人々の信仰の拠り所となっている。又、霊石亀石の背中に運玉を投げ見事にはいると願い事がかなうという伝えがある。

 このほか、念流・陰流の剣法発祥の地として、厄除・漁業・航海の守護神としての信仰は愈々篤く、今後とも神秘な霊気によって人々の魂を高めて行くであろう。

霊石「おちち岩」

 当神宮ご祭神の母君「豊玉姫命」が、洞窟に造った未完成の産屋でご出産の際、父君「彦穂穂出見尊」がのぞいてしまいました。

 そのため母君は故郷の海の国へ帰らなければならず、その際お生まれになったご祭神への愛情と健やかな成長を願い、ご自分の両乳房を洞窟内にくっつけていかれたといわれています。

 現在も絶えず石清水がしたたり落ちる神秘の岩。

鵜戸神宮社務所

   日向鵜戸神社にて

山藤や此処より沓を許されず

「天の川」

種田山頭火の句碑があった。


鵜しきりに啼いて何を知らせる

平成27年(2015年)2月4日、建立。

漂泊の俳人山頭火は、昭和5年10月2日、鵜戸神宮に参詣。御神鳥の「鵜」をとりあげ、次の句を残しました。

「鵜しきりに啼いて何を知らせる」

鵜戸の大自然と「鵜の鳥」が、今の世の中に何か警鐘をならしていると考えたのでしょうか。

寺原聖山書

山頭火の句碑があるとは、知らなかった。

 十月二日 雨、午后は晴、鵜戸、浜田屋(三五・中)

 ほんたうによう寝られた、夜が明けると眼がさめて、すぐ起きる、細い雨が降つてゐる、けふもまた濡れて歩く外ない、昨日の草鞋を穿いて出かける、途中、宮ノ浦といふ部落を行乞したが、どの家も中流程度で、富が平均してゐるやうであつた、今は養蚕と稲扱との最中であつた、三里半歩いて鵜戸へ着いたのが二時過ぎ、こゝでも二時間あまり行乞、それから鵜戸神宮へ参拝した、小山の石段を登つて下る足は重かつたが、老杉しんしんとしてよかつた、たゞ民家が散在してゐるのを惜しんだ、社殿は岩窟内にある、大海の波浪がその岩壁へ押し寄せて砕ける、境地としては申分ない、古代の面影がどことなく漂うてゐるやうに感じる。


北原白秋も鵜戸神宮を訪れているようである。


鵜戸の海夕虹明しまさしくぞ神降り立たす天の浮橋

『白秋全歌集』には収録されていない歌である。

 昭和16年(1941年)3月14日、「海道東征」が「福岡日日新聞」の文化賞を受賞、その授賞式に出席ため家族とともに九州へ出発。その後、宮崎県の招きに応じ妻子や木俣修とともに宮崎から大分を回る。

鵜戸神宮本殿


 鵜戸神宮本殿は、鵜戸崎の日向灘に面した岩窟内に建てられている。

 本殿創建の年代は不詳であるが、社伝によると崇神天皇の代に創建し、桓武天皇の勅命により、光喜坊快久が神殿及び仁王護国寺を再興した、と伝えている。中世には、「鵜戸六所大権現」、江戸時代以降は「鵜戸山大権現」として、日向国内外から厚い信仰を得ていた。

 現在の本殿は、正徳元年(1711年)に飫肥藩五代藩主伊藤祐実が改築したものを明治23年(1890年)に大修理を行い、さらに昭和42年(1967年)に修理したものである。平成9年度(1997年)には屋根や内装等の修理が行われた。このように幾度の改修を実施したものの、岩窟内に見事に収めた権現造風の八棟造は、往時のままであり、その文化的価値は高い。

岩窟内は暗くて、「お乳岩」は分からなかった。

“おちち水”の由来

御祭神ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の御父君)の御母君豊玉姫命は暖かい母性愛から御祭神の為に両乳房を窟内に置いて行かれたと伝えられ、其のお乳岩から出るお乳水は今もなお絶え間なく玉のような石清水を滴らせて、安産・育児・身体健全その他心願成就がかなうことで知られています。

霊石亀石


昭和33年(1958年)2月16日、水原秋桜子は鵜戸神宮に参詣している。

   十六日、快晴。海岸を南行して鵜戸神宮に詣づ。
   荒潮にむかふ絶壁の岩窟にしづもりたまふ宮なり

(なみ)めぐる巌もかぎろふ鵜戸の宮

青潮の上翔け移り囀れり

潮風や揚羽吹き入る神の前

春潮のとゞろきこもる檜皮葺

『蓬壺』

昭和40年(1965年)12月8日、荻原井泉水は鵜戸神宮に詣でた。

鵜戸神宮詣 四句

光なり大いなる巌の凹洞(ほと)なす潮なり

青き大鳥か木か草か岩にはばたく

花はつわのはな道は巌にすがりゆく

神詣るとて竹の赤杖手にして老いらく


交通の便が悪いのに、参拝者が多いのに驚いた。

海岸参道に鵜戸崎灯台があった。


通称自動車参道は歩行者通行禁止。

都井岬に向かう。

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