延宝6年(1678年)、4代将軍徳川家綱から埋立地であったこの地を拝領した老中大久保忠朝はここに屋敷を造り、作庭を始めました。庭は貞享3年(1686年)までに完成し、「楽壽園」と命名されました。これが本庭園の起源です。 「楽壽園」は典型的な回遊式庭園で、園景の中心には江戸の水辺庭園特有の潮入りの池があり、干満によって景色が変化するよう工夫されていました。池泉の中央部には中国杭州の西湖堤を模した堤や蓬莱山を表した中島など中国の趣を取り入れ、築山のうえから白帆の行きかう沖合の海の展望にも意を注ぐつくりでした。その後、大久保氏より数氏を経て、幕末には紀州徳川家の芝御屋敷となり、さらに有栖川宮家を経て宮内省の買い上げにより明治9年「芝離宮」となりました。 明治24年には迎賓館としての役割を果たすために園内に洋館を新築し、以来、多くの外国貴賓を迎えました。 大正12年の関東大震災で洋館等が焼失したものの翌13年1月、昭和天皇の御成婚を記念して東京市に下賜され、市では震災復旧を行い、同年4月に「旧芝離宮庭園」として一般に公開しました。 現在は周囲の埋立、林立するビルにより潮入りの機能、海の展望は失われましたが、中島の蓬莱山をはじめとする石組の妙は昔日の面影を残しております。昭和54年、文化財保護法により国の「名勝」に指定されました。 総面積は43175.36uです。 |
中国の浙江省杭州にある西湖という風光明媚な湖があります。 この湖に北宋時代の詩人の蘇東坡が築いた長堤を西湖堤と言います。 この堤は西湖堤を模して造られたものです。 当園の他、小石川後楽園、広島の縮景園などにもみられます。 |
この石柱は、小田原北条家に仕えた戦国武将の旧邸から運ばれた門柱です。 ここが小田原藩(大久保家)の上屋敷であった当初、茶室に使われていたといわれています。 |
「九尺」とは高さ、「盈」とは水や月が満ちるという意味です。 海の波打際に造られたこの高台は、いつ造られたものか不明ですが、明治天皇が明治8年にこの庭園に行幸された際、この台上から、海で漁民達が漁をする様子や海の眺望を楽しまれたところです。 |
「潮入りの池」に海水を取り入れるために、設けられた水路です。 水路の石垣や鋼鉄製の水門の遺構が見られます。 現在は海とのつながりを絶たれ、淡水の池になっています。 |