栴檀木橋(せんだんのきばし)は、江戸時代の初期、中之島にあった蔵屋敷へ行き来するために架けられたと考えられ、その昔、橋筋に栴檀の大木があったところからその名が付けられたという。当時市中と中之島を結ぶ橋上からは、生駒連山を背景に大阪城を望み、天満・天神・難波の三大橋を眺めることができた。 明治18年、淀川大洪水が発生し、この橋をはじめ、中之島に架かる多くの橋が流された。栴檀木橋が再び姿を見せたのは大正3年のことで、以後昭和10年に架けかえられ、中之島公園とともに、広く市民に親しまれてきた。 このたびの架けかえにあたっては、高欄に栴檀の模様を配し、橋詰の整備も行って、この由緒ある橋の歴史を顕彰することにした。
大阪市 |
大阪市中央公会堂は、明治44年(1911年)に大阪市民の岩本栄之助氏から公会堂のために寄付された100万円をもとに建設されました。 日本最初の懸賞設計競技で選ばれた岡田信一郎の設計原案をもとに、辰野金吾・片岡安という当時を代表する人たちによって設計されました。 大正2年(1913年)6月から5年4ヶ月をかけた工事では、延18万人を超える人々が働き、大正7年(1918年)11月17日に開館しました。 西洋建築の歴史から生まれた材料をよく学んで高い水準に造られており、赤煉瓦の公会堂として市民に愛され親しまれてきた、たいへん貴重な建物です。昭和63年(1988年)に永久保存が決定され、より良く使っていけるよう平成11年(1999年)3月から3年半の工事が行われました。 平成14年(2002年)11月1日に再び開館、同12月26日に国の重要文化財(建2419)に指定されました。
大阪市教育委員会 |
昭和4年(1929年)11月13日、中央公会堂で『ホトトギス』400号記念俳句大会が催された。 |
十一月二十三日。第三回関西俳句大会。大阪中央公会堂。東京よ りは花蓑、たけし、水竹居、青邨、あふひ、夏山、豊水、夢香等 八名出席、会衆二千名。 「句作四十年」と題し講演、会後、同三階にて三百五十名の饗宴。 |
乳母車 母よ―― 淡くかなしきもののふるなり 紫陽花いろのもののふるなり はてしなき並樹のかげを そうそうと風のふくなり 時はたそがれ 母よ 私の乳母車を押せ 泣きぬれる夕陽にむかつて リンリンと私の乳母車を押せ (※リン=「車」+隣のつくり) 赤い総(ふさ)ある天鵞絨(びろおど)の帽子を つめたき額ひたひにかむらせよ 旅いそぐ鳥の列にも 季節は空を渡るなり 淡くかなしきもののふる 紫陽花いろのもののふる道 母よ 私は知つてゐる この道は遠く遠くはてしない道 |