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「銅(かね)の鳥居」は寛永14年(1637年)佐賀藩主鍋島勝茂の寄進によって建てられたもので、高さ7メートル、柱の周囲は3メートル余りもある胴の太い青銅製の鳥居です。「英彦山」の額は享保19年(1734年)に霊元法皇の勅命を受けてかけられたもので、この頃から「英彦山」と称されるようになったといわれています。
環境省・福岡県‘93 |




| 谺して |
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| 山ほとゝぎす |
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| ほしいまゝ |
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杉田久女は小倉在住の頃は度々英彦山に遊び、長く逗留した年もあり、英彦の句を沢山作っています。 この碑の句は昭和5年秋大阪毎日東京日日新聞社主催の日本新名勝俳句の募集で選者高浜虚子の最優秀句20句に選ばれ風景院賞になった句です。 |

| 彦山高き處望氤ウン |
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| 木末樓臺晴れて始めて分かる |
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| 日暮天壇人去り盡くし |
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| 香煙散じて數峰の雲と作る |
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淡窓29才作 此の詩は文化7年(1810年)9月廣瀬淡窓先生が病気平癒祈願の為この彦山に登り作られた名詩。淡窓先生は幕末、天領日田が生んだ大詩人大教育家で、安政3年(1856年)75才歿。 |
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昭和11年(1936年)6月15日、吉井勇は門司を出発、小倉、戸畑、英彦山などを経て、20日博多に着いた。 |
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英彦山(えひこやま)ちむろの谷は見ざれども心は遠く空にこそ飛べ 彦山(ひこさん)の荒山伏のあくびよりこれや湧き來し雲にあらぬか
『天 彦』 |

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昭和31年(1956年)、高浜年尾は英彦山を訪れる。 |
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石垣はみな坊址や蔦紅葉 坊址も三日月池のあとも枯れ |

| 昭和35年(1960年)、高野素十は英彦山を訪れている。 |
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英彦山 二句 冬山に雪舟の庭ありて古る 霧の山より薪水の恵み受く
『芹』 |
