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城山公園は明治8年(1875年)に松本に設置された最初の公園で、その前身は藩政時代、時の藩主戸田氏がそれまでの藩の管理下にあったこの地一帯を民衆に開放し、桜・楓などを植えて君民遊楽の地としたことに始まる。 |

| てるてる坊主てる坊主 |
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| あした天気にしておくれ |
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| いつかの夢の空のよに |
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| 晴れたら金の鈴あげよ |
| 詩 | 浅原六朗(鏡村) |
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| 曲 | 中山晋平 |
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碑の裏に「浅原六朗氏が大正9年『少女の友』に発表したもの」と書いてあったが、大正10年『少女の友』6月号に浅原鏡村のペンネームで発表されたようである。 |

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空穂は本名は通治。明治10年(1877年)松本市和田に生まれ、昭和42年(1967年)。91歳で没した。
松本中学校から東京専門学校(後の早稲田大学)に学び、はじめ『明星』に参加し歌才を認められたが、のち現実主義的立場をとり生活に即した歌をつくった。『国民文学』を主宰し。歌集を多く残したが、この歌は、第1歌集の『まひる野』に収められており、みずみずしい若い感傷でありながら、当時の『明星』の作風とは共通しない、リアリズムの精神がうかがわれるもので、現実把握の上にロマンシズムをうちたてている。 この碑は昭和29年(1954年)に「松本空穂会」によって喜寿の祝いの意をこめて建立されたもので、書も本人のものである。 昭和56年3月
松本市をよくする市民運動推進会議 |
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昭和30年(1955年)9月29日、水原秋桜子は城山で窪田空穂の歌碑を見ている。 |
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空穂先生の歌碑立てる城山へ登る。刻める歌は「鉦鳴 らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむ か」にて『まひる野』時代の作なり 残る虫歌のおもひも又遠し
『玄魚』 |

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この句は元禄元年(1688年)の句。「吉野山にて」との前書がついている。花ざかりの山を中心として、広々とした朝の天地に情懐を寄せた点が、さすがは芭蕉だと想わせる。 天保14年(1843年)に桜・楓を植えて開放されたこの山にふさわしい句である。建立は弘化4年(1847年)春である。 筆者は花の本梅室。梅室は明和6年(1769年)加賀金沢に生まれ、嘉永5年(1852年)10月1日、84歳で没している。俳系は闌更の門、文政から天保にかけて江戸に居住し、各地の芭蕉句碑に筆跡をとどめ、多くの著書をのこしており、俳史的位置は高い。 昭和57年3月
松本市をよくする市民運動推進会議 |

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松本市(宮渕)出身の赤堀廉蔵の三女として、明治23年鹿児島市で生まれる。 大正末期から昭和初期にかけて活躍した屈指の女流俳人である。 久女は、生地も夫の故郷も好まず、父の故郷松本を愛しており、生前日本アルプスの見える所へ葬って欲しいと言っていたそうで、この城山の地に分骨埋葬されている。 この句は久女の代表的な句で、大正9年8月父の埋骨式のためにこの地を訪れたときのものである。 信濃の高原の秋気を紫陽花に託して詠んだ格調の高い俳句である。 昭和59年3月
松本市をよくする市民運動推進会議 |

