2016年和歌山

潮岬灯台〜白河天皇と花山法皇〜
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串本町潮岬に潮岬灯台があるので、立ち寄ってみた。


灯台の入口に白河天皇と花山法皇の歌碑があった。


   花山法皇御製   平安時代

ココニマス神ニ手向ノ幣帛(ミテグラ)ナレヤ潮ノ御崎ニ寄スル白波

潮御崎神社伝承

   白河天皇御製   平安時代

アナウレシ難波ノ宮ノコト問ハン潮ノ御崎ノ御綱柏ニ

潮御崎神社伝承

潮岬灯台


本州最南端の灯台である。

ちなみに本州最北端は大間埼灯台

潮岬灯台の概要

 この灯台は、慶応2年(1866年)江戸幕府がイギリス、フランス、オランダ及びアメリカの4か国と締結した江戸条約で建設が決められた観音埼、剱埼、野島埼神子元島、樫野埼、潮岬、伊王島及び佐多岬各灯台の8灯台のうち一つでした。

 当初のものは、英人技師ヘンリーブラントンが設計し、明治2年(1869年)4月着工され、1年余を要し、翌3年6月に完成、同月10日、仮点灯を開始した日本初の様式木造灯台でした。その後明治6年9月15日正式点灯して業務を開始しました。

 明治11年4月15日現在の石造りに改築しました。

灯台から見下ろす。


あいにくの曇り空である。

昭和8年(1933年)4月9日、高浜虚子は潮岬灯台に至る

   潮のみさき燈臺

燈臺を花の梢に見上げたり

      四月九日、大阪より乘船。串本港に上陸。潮の御崎燈臺に至る。


灯台を花の梢に見上げたり」の句碑があったようだが、気づかなかった。

昭和25年(1950年)4月10日、高浜虚子は潮岬に遊ぶ。

林なす潮の岬の崖椿

      四月十日 八日立子と下阪。灘万泊り。十日年尾、立子等、
      数人と紀州に向ふ。途中串本に降り、潮の岬に遊び、串本の
      俳人と黒潮館にて句会。湯川温泉喜代門泊り。


昭和29年(1954年)4月16日、水原秋桜子は潮岬を訪れている。

   十六日、潮岬にて

麦の穂の露や岬端潮ながる

灘凪ぎて麦の穂よりも平らなり

すさまじき巌根あらはに潮干岩

裾漕げる舟一片や潮干岩

『帰心』

昭和31年(1956年)、山口誓子は潮岬を訪れた。

   潮 岬

低咲きの岬の薊大海原

『方位』

太陽の出でて没(い)るまで青岬」の句碑があったようだが、気づかなかった。

 南紀潮岬に移る。そこへは串本から行く。いつもタクシーで行く。大きな瘤のような半島で、途中に村があり、畑があったりして岬端に達するのである。

 昭和三十一年、はじめてそこへ行ったとき、灯台の下にある潮御崎神社へ下りて行って、その右手の木蔭に立っている虚子の句碑を見た。御影石の角柱碑。

   灯台を花の梢に見上げたり

 虚子は昭和八年に来て、神社の桜の梢の上に灯台を仰ぎみたのである。灯台は神社からそんな高いところにあった。しかし句碑のところへはわざわざ下りていかねばならぬから、位置としてはいい位置ではない。

(中 略)

 私は岬のその大青芝に心を牽かれた。その真青な岬は、太陽が東から出て、西に没するまで照らされていた。太陽は海の上を通って一日中照りつづけ、岬はその光を享けて一日中真青だった。

 出来た句は

   太陽の出でて没るまで青岬

 昭和三十五年にこの句碑が建った。陛下の歌碑よりすこし西へ離れた松林の中に。

 句碑は御影石の切石、大きな岩の上に載っている。読み易く書いたし、墨が入れてあるから、誰にでもよく読める。

『句碑をたずねて』

那智の滝へ。

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