2025年〜神奈川〜

横浜公園〜リチャード・ヘンリー・ブラントン〜
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横浜公園誕生のきっかけは、幕末の慶応2年(1866年)11月に横浜を襲った大火でした。開港場のおよそ三分の一を焼失した火災を受けて、幕府と諸外国との間で「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」が結ばれ、大火で全焼した旧太田屋新田の港崎(みよざき)遊郭の跡地に、外国人と日本人の双方が利用できる「公けの遊園」を設置することが定められました。 公園は外国人居留地と日本人市街地を隔てる防火道路(日本大通り)と一体的に計画され、イギリス人技師ブラントン(R.H.Brunton)による原設計をもとに、神奈川県が実施設計を担当して造営されました。明治9年(1876年)2月に開園し、居留外国人と日本人の双方が利用できる公園として「彼我(ひが)公園」と呼ばれるようになりました。 その後の横浜公園は、園域全体が横浜市の管理となった明治末期、関東大震災からの復興を遂げた昭和初期、そして終戦後の接収を経て、現在の横浜スタジアムが建設された昭和50年代と、三度にわたる大きな改造を経て現在に至っています。 現在も園内には、震災復興時の遺産として、公園中央の噴水池や縦溝入りのスクラッチタイルを貼った外周の腰壁、震災時に横浜公園に避難した市民による謝恩植樹記念碑などが現存しており、平成19年(2007年)2月には、日本大通り・山下公園とあわせて国の登録記念物(名勝地)となりました。 |

| 明治元年(1868年)政府の招聘により来日したブラントンは、開国にともない、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うなど、近代的なまちづくりに大きな足跡をのこしました。 |

