寛政5年(1792年)9月、菅江真澄は下北半島遊覧の日記『牧の朝露』に大間のことを記している。 享和元年(1801年)10月、伊能忠敬は下北半島に到着。終日の悪天候の中、大間町周辺の測量を行った。 文化7年(1810年)9月5日、松窓乙二は大間浜に到着。函館に行く船を待つ。 |
雲霧はれのく時は、手とゞくばかりにみゆれど、天とぶや雁を使にと願ひし人のごとく、せめてはこゝに我れありとつげんにも、せんすべなくて、 おもふにも波をしをりの月夜かな |
自動車は大間に果てたり。村役場もあれば、宿屋もあり。大間崎とて、平かなる陸嘴、草花を帯びて、長く延び、少し離れたる島に、燈台立てり。函館山近く数里の外に見ゆ。維新以前は、こゝより函館に渡りしが、今は青森よりして、航路三倍も延びける也。
「恐山半島の大断崖」(大間崎) |
大海にむかひて一人 |
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七八日 |
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泣きなむとすと家を出でにき |
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東海の小島の磯の白砂に |
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われ泣きぬれて |
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蟹とたはむる |
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大といふ字を百あまり |
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砂に書き |
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死ぬことをやめて帰り来れり |
昭和20年7月14日午后2時36分、米海軍艦載機と交戦し激斗のすえ乗員135名の勇士、艦と共にこの海に眠る。 |
「まぐろ一本釣の町 おおま」のモニュメントがあったが、記念写真を撮る人が多く写真は撮らなかった。 |