私の旅日記

佐賀市大隈記念館〜大隈重信侯之像〜
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佐賀市水ケ江に佐賀市大隈記念館(HP)があるので、立ち寄ってみた。

入場料は300円。

大隈重信侯之像


 この像は、明治31年の第一次大隈内閣成立の際、当時の早稲田大学校友会が作成したものを大隈重信侯生誕150年を記念して複製したものです。

昭和63年(1988年)4月、建立。

大隈重信侯 碑文

 大隈重信、幼名は八太郎という。いかにも気宇壮大、その生涯も名前のように闊達である。

 幕末、1838年に、佐賀藩士信保の長男として、城下町・会所小路に生まれた。柔弱な幼時だったが母三井子は時に優しく時に厳しかった。この母は重信の人となりに大きく響いている。

 藩校弘道館に学ぶのは6歳。学ぶことの偉大さを知る。15歳の1853年は、ペリー来航の年。17歳の時、蘭学寮に入る。さらに、長崎に英学致遠館が設立されると、副島種臣とともに学生たちの監督として、フルベッキに学ぶ。

 明治維新の1868年、新政府が生まれると直ちに外国事務局判事となり、外交の衝に当たる。1870年、四参議の一人となり、内外国債の整理、金本位制を導入し、十進法の「円」に改めるなど通貨制度を一新、東京神戸間の鉄道設立にも着手する。

 1873年、征韓論が決裂した時、重信は同じ佐賀藩の副島、江藤とは行動を共にせず閣内に留まった。学んで内包したものが、彼らと質を異にしていたといえる。

 1881年、国会開設の意見書を提出して薩長勢力と対立、ついに参議を解任された。「明治十四年の政変」である。翌年、立憲改進党を結成して党首となり、英国を手本に言論の政治を目指す。

 その秋、早稲田大学前身・東京専門学校を設立、新しい国、時代に備える人材の育成に乗り出した。時に44歳。

 1888年、黒田内閣の外務大臣として入閣、不平等条約改正に全力を傾けるが、不満を持つ暴徒に爆弾を投じられ、右脚を失う。

 しかもなお不屈である。1895年進歩党を作り、一大野党勢力を結集した。翌年、松方内閣の外務大臣として入閣、27・8年戦役の終戦処理に当たる。

 第1次大隈内閣は1898年である。「隈板内閣」と呼ばれ寿命は短かったが、日本憲政史上初の政党内閣として歴史を刻んだ。佐賀県が生んだ総理大臣である。

 1902年、東京専門学校を早稲田大学に改め、1907年総長に就任する。

 時代は再び重信を求める。1914年、76歳で再び内閣を組閣。2年の首相在任中は第1次世界大戦争という難局にも遭遇する。

 1922年1月、84歳をもって世を去る。17日東京で行われた国民葬には、150万人が参列、英明な魂を悼んだ。

 時代は人が作る。人は学んで作られる。重信は絶えず人に呼びかけ、学ぶことを諭した。「あるんであるんである」という有名な演説の口調がそれを象徴する。「民衆政治家」重信は、今も「民衆」に朗々と呼びかける、「たえず学び、たえず行え」と。

大隈記念館


昭和41年(1966年)11月、落成。

昭和42年(1967年)10月、開館。

設計は早稲田大学名誉教授今井兼次博士。

今井兼次は日本にガウディを紹介した建築家。

昭和31年(1956年)、唐津小笠原記念館(福岡県唐津市)。

昭和37年(1962年)、日本二十六聖人殉教記念館(長崎県長崎市)。

昭和33年(1958年)、碌山美術館(長野県安曇野市)。

昭和45年(1970年)、遠山美術館(埼玉県川島町)。

いずれも訪れたことがあるが、今井兼次の作品とは知らなかった。

大隈重信侯之像


オッティリオ−ペッシは1877年イタリア生まれ。パリの大学で東洋芸術を教授していたが、第一次世界大戦の戦乱を逃れて1916年に来日し、創作活動を行った。大隈像は1919年に東京三越で開かれた氏の展覧会に出展されていることから、1916〜19年に制作したものと考えられる。

ステンドグラス


展示室


入場者は私一人だった。

史跡 大隈重信旧宅

 この建物は今から200年ほど前の天明・寛政の頃建てられた禄高300石取りの建物と云われている。

 最初は佐賀特有の凹型の屋根をもったクド造りの建物で、藁葺、木造の平屋であった。

 大隈家は代々兵法家で、特に父信保は、荻野流砲術家として名声があり、禄高300石の石火野頭人(砲術長)であった。

 幕末、長崎警備につき、砲台勤務で活躍した。

 天保3年(1832年)信保はこの家を買い取り同9年2月16日、この家で重信が誕生した。

 重信が6歳のとき藩校弘道館に入学したが、母三井子の考えによって、勉強部屋が2階に増築され、これが今の家の中央部に位置している

。  大正10年(1921年)大隈重信生家保存会が設立されたとき、生家の管理人を居住させるため、東側のカマヤの部分を増改築して現在の姿になったものである。

 昭和40年、明治の元勲大隈重信候の旧宅として、国の史跡として指定を受けた。

改修のため見学できなかった。

昭和7年(1932年)3月5日、種田山頭火は大隈公園を訪れている。

 三月五日 すべて昨日のそれらとおなじ。

大隈公園といふのがあつた、そこは侯の生誕地だつた、気持のよい石碑が建てられてあつた、小松の植込もよかつた、どこからともなく花のかをり――丁字花らしいにほひがたゞようてゐた、三十年前早稲田在学中、侯の庭園で、侯等といつしよに記念写真をとつたことなども想ひ出されてしようぜんとした。


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