2018年奈 良

郡山城址〜天守台〜
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永慶寺から郡山城址に向かう。

西公園に土田耕平の歌碑があった。


むら立ちて咲く
蓮のはなそと濠の
たかいし垣に
朝日照りつゝ

郡山城天守台は、現在立ち入り禁止。

散策道を回る。


天守台


左手に柳沢神社が見える。

山口誓子の句碑があった。


大和また新たなる国田を鋤けば

昭和30年(1955年)の句

『構橋』に収録。

昭和46年(1951年)11月、春日野俳句会建立。

山口誓子は郡山城址を訪れている。

   郡 山

城跡の窪は落葉の寄合場

『不動』

城址会館には森川許六菜の花の中に城あり郡山」の句碑があったようだ。

追手門に抜ける。


追手門


郡山城ならびに追手門(梅林門)の由来

 筒井順慶が織田信長の後援によって、松永弾正久秀を破り、宿願の大和統一の偉業をなし遂げて、天正8年(1580年)11月12日郡山にはいり、築城に着手している。しかし、本格的な郡山築城は、天正13年(1585年)9月に、大和、和泉、紀伊三ヶ国の太守として豊臣秀長が知行高百万石をもって入城してからのことである。そのとき追手門もこの場所に築かれたものと思われる。秀長なきあと養子秀保、増田長盛とうけ継がれたが、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦が起き、長盛は豊臣傘下として西軍に味方し大阪を守った。戦は西軍の敗北となり、郡山城は徳川方に接収されて、城は取り壊しとなり、建物のすべては伏見城に移された。廃城となった郡山の地は、代官大久保石見守長安、山口駿河守直友、筒井主殿頭定慶らが相次いで城番となり、預っていた。

 慶長19年(1614年)大阪冬の陣が起こり、藤堂高虎は10月25日、郡山に着陣し、戦闘配置についたものの、東西の和議が整い事なきを得た。

 翌元和元年(1615年)4月大阪夏の陣の際時の城番筒井主殿頭は大阪方の誘いを断り、徳川方に味方したので大阪方の攻撃に遇い、福住に逃れた。5月8日大阪落城を知った定慶は、士道に恥じて切腹して果てたといわれている。

 戦後の論功において戦功第二となった水野日向守勝成が、6万石をもって郡山に封ぜられたけれど、城郭は全く荒れ果てていたので、石垣や堀の修築は幕府直轄事業とし、本丸御殿、家中屋敷などの家作は勝成の手で普請を進めた。しかし、在城わずか5年で備後福山城に移され、かわって戦功第一の論功を受けた大阪城主松平下総守忠明が、元和4年(1618年)10月、12万石をもって郡山城主となった。そのとき城には十分な建物とてなく、家康の命によって諸門を伏見城から再び郡山に移したので、近世郡山城の偉容は整った。追手門もその一つで、当時はこの門を一庵丸門と呼んでいた。その後、本多内記政勝、政長、政利、松平日向守信之、本多下野守忠平、能登守忠常、信濃守忠直、唐之助忠村、喜十郎忠烈と続き、忠烈嗣なく本多家は断絶となった。

 享保9年(1724年)3月11日、禁裡守護の大任を帯びて15万石余をもって甲府城から郡山に移封なった柳澤甲斐守吉里は、一庵丸門を梅林門と名を替え、城は美濃守信鴻、甲斐守保光、保泰、保興、保申とうけ継がれ明治維新を迎えて廃城となり、すべての建物は取り払われてしまった。近時郡山城復興の声が高まり、第一次として市民の手による追手門が秀長築城にふさわしい姿で復原された。

大和郡山市

東隅櫓が見える。


県指定史跡 郡山城跡

 郡山城は、天正6〜7年(1578〜1579)に筒井順慶が縄張りをおこない、同8年の一国一城令に基づき拡張、同11年には天守閣も完成をみた。同13年、豊臣秀長が入部してさらに拡張され、文禄5年(1596年)には増田長盛による秋篠川の付け替えが行なわれ、外堀を一周させ、城下町の完成をみるに至った。

 関が原戦後、長盛が改易され、大阪夏の陣以降、水野勝成が、さらに松平、本多が入城し、享保9年(1724年)以降、幕末まで、柳澤十五万石の居城として栄えた。

 現在のこる縄張りは、秀長時代のもので、左京堀、鰻堀、鷺堀で囲まれた本丸、二の丸、三の丸などが城内で、それ以外の外堀に囲まれた地域が城下となる。

 なお、史跡として指定されているのは、本丸、毘沙門曲輪、法印郭、玄武郭、陣甫郭及びその内掘である。

奈良県教育委員会

鉄御門趾


 昭和11年(1936年)5月26日、柳沢保恵(やすとし)は65歳で没。6月15日、柳沢保承(やすつぐ)は伯爵を襲爵。

昭和19年(1944年)4月、郡山城址に阿波野青畝の句碑を建立。

十五万石の城下へ花の坂

『國 原』

 大和郡山の城の坂みちにこの句を彫った碑がぽつんとひちり立っている。

 日本軍がマニラ、シンガポールを占領、ジャワ島上陸と続々戦勝を報じても、これに酔えず、戦局はますます生活の貧困を逼迫させてやまない状態だった。たとえば郡山の桜はどうか。毎年桜のトンネルに賑わっていたのであるが、薪炭不足の町民はどんどんと桜樹を伐り倒した。後日旧藩主柳沢保恵伯爵が私の句を耳にとめられて、ひそかに考えていられたそうである。難局に面する城が曽ては詩歌にも名をのこしてきているものを、荒廃することは嘆かわしい。今の人は十五万石という歴史を顧みないし興味をよせようとせぬ。空しい変りかたに対してせめてもの心遣りであると、昵懇の某氏に洩らしておられたと聞く。敗戦後の今日は再び桜が補植されている。まことに皮肉なしだいだ。


句碑には、気付かなかった。

五軒屋敷池


昭和28年(1953年)10月13日、高浜虚子は柳沢保承を訪ねる。

十月十三日 素十僑居を訪ふべく奈良県高取町に行く 途中郡山
下車、柳沢保承を訪ふ 眞砂子、立子、杞陽夫妻等と共に

 今も尚二の丸に住み金魚飼ふ


昭和35年(1960年)10月25日、柳沢保承は71歳で没。

猛烈な暑さだった。

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