伏見櫓は、桁行8間、梁間3間、3層入母屋造、本瓦葺の建物で、福山城築城にあたり、伏見城松の丸東櫓を移築して建てられた。初層と二層は同じ平面で、その上にやや小さい三層を載せ、内部は階段を付け、床板敷き、小屋梁天井としている。城郭建築史上、初期の様式を残しており、伏見城の確かな遺構としても貴重である。 |
筋鉄御門は、桁行10間、梁間3間、入母屋造、本瓦葺の脇戸付御門で、伏見櫓と同じく伏見城から移築された。下層の各柱には根巻き金具を付け、四隅に筋金具を打ち、扉にも12条の筋鉄を鋲打ちし、乳金具を飾るなど堅固な造りとなっている。 |
嘉永4年(1851年)3月13日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、福山を過ぎる。 |
一、十三日 晴。卯前、驛を發して坂を登る。坂の上に藝州領・福山領の境碑あり。坂を下り平田の中を行くこと數里、左に福山城を視て過ぐ。閣老阿部伊勢守の封なり。 |
明治43年(1910年)12月17日、河東碧梧桐は福山城に上っている。 |
福山城に上って、予に城内公園の芝生に松を植えよという。三刀屋に梅を植えて以来の記念樹である。 |
この句碑がある二之丸一帯は、そこに屋敷を構えていた田中八九郎(福山製紙創業者)が、大正時代に入り桜の木を植え始め桜の名所となった。詳細は不明だが、八九郎と小波が交友深かった縁で建てられた思われる。 |
昭和20年(1945年)8月8日、福山大空襲によって福山城は伏見櫓、筋鉄御門を残して焼失。 |
月見櫓はもと京都、伏見城内にあったものを移築したものといわれ、本丸の東南隅に位置し、望楼の役割を成していた。 明治の初め頃とりこわされたが、昭和41年(1966年)に天守閣とともに外観復原された。 |
福山城は、西国鎮護の重責を担って入封した徳川譜代の臣、水野勝成が、元和6年(1620年)より3ヶ年の歳月を費し、陸海の要衝であるこの地に完成させた平山城である。 総面積約8万坪(26.5ha)内外二重の濠をめぐらし、本丸には、白亜の5層6階の複合天守と多数の櫓を構築、その偉容は、全国城郭中屈指の名城とされていた。 その後、水野5代、松平1代、阿部10代の居城となり、明治になって濠は埋められ、月見櫓をはじめ多くの櫓が取り壊され、残された天守閣・湯殿等も第二次世界大戦の戦火により焼失した。 幸いにも、築城当時、伏見城から移築した伏見櫓・筋鉄御門は、昔日の姿を留め、貴重な遺構として重要文化財の指定を受けている。 なお、現在の天守閣等は、昭和41年市制50周年記念事業として、市民の浄財で外観復元がなされ、城跡は国の史跡となっている。 城名 鉄覆山朱雀院久松城 別名 葦陽城 |
福 山 枯洲より見る南面の福山城
『一隅』 |
京都、伏見城内にあった御殿とともに移築した建物で、国宝に指定されていたが、昭和20年(1945年)の戦災により焼失した。昭和41年(1966年)に内外ともに復原したものである。 |
令和4年(2022年)8月28日、福山城は築城400年を記念してリニューアルオープン。 |