2021年熊 本

水前寺成趣園〜肥後細川家〜
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6年ぶりに水前寺成趣園へ。

料金は400円。

産交バス「わくわく1dayパス」で1割引。

夏目漱石の句碑があった。


湧くからに流るゝからに春の水

明治31年(1898年)の句。

平成29年(2017年)11月、建立。

出水神社が見える。


出水神社の鳥居


夏目漱石の句碑があった。


しめ縄や春の水湧く水前寺

漱石は正岡子規の影響で句作に熱中します。熊本でも俳句を作っては子規へと送り続け、子規は朱を入れて添削し、送り返していました。この句は明治30年4月18日、漱石が子規に送った直筆51句中の1句です。

出水神社


明治10年(1877年)西南の役で熊本の町は焼け野が原となりました。旧熊本藩士たちは藩主の御恩に報いるとともに、人心を安定させ、人づくり街づくりをして熊本の街を復興・発展させようとの思いから、明治11年(1878年)、肥後細川家に縁の深い水前寺成趣園の地に社殿を創建しました。商売繁盛、学業成就、縁結び、無病息災などのご利益があります。

古今伝授之間が見える。


細川藤孝(幽斎)公銅像


天文3年(1534年)に生まれた肥後細川家の初代細川藤孝(幽斎)公は、幼いころは母方の実家清原家で育てられました。清原家は有名な清少納言などを輩出した学者の家であり、学問的に大変恵まれた環境で成長したようです。藤孝(幽斎)公の人生で大きな転機になったのは、同じ年齢の織田信長との出会いでした。二人は厚い信頼関係で結ばれ、信長旗下の勇将・歌人として近世細川家の基礎を築きました。室町将軍家に始まり、信長秀吉家康に仕えた数少ない武人である一方、和歌や連歌、能に茶の湯と諸芸に通じた当代一の文化人でもありました。とくに和歌については「古今伝授」の継承者となりました。関ヶ原の戦いのおり、八条宮智仁(としひと)親王への古今伝授が中断し、丹後田辺城が西軍により包囲された際、藤孝(幽斎)公の死によって古今伝授が絶えることを危惧した、親王の兄の後陽成天皇が勅使を派遣され、和睦が成立しました。藤孝(幽斎)公が八条宮智仁親王へ古今伝授を行った「古今伝授之間」が大正元年(1912年)、肥後細川家の神霊を祀るこの水前寺成趣園に復元されました。

細川忠利公銅像


天正14年(1586年)忠興(三斎)公の三男として産まれる。母は明智光秀の娘の玉(ガラシャ)。藤孝(幽斎)公の孫。慶長14年(1609年)徳川秀忠の養女と豊前(大分県)中津城で結婚します。寛永9年(1632年)肥後細川家の初代藩主として熊本城に入り、父忠興(三斎)公は八代城に入ります。水前寺成趣園の創設者。幕閣要人との交友関係は、春日の局(三代将軍家光の乳母、父は明智光秀の重臣・斎藤利三)、柳生宗矩(秀忠・家光の兵法師範)、沢庵宗彭(幽斎公時代からの交流)など。剣豪宮本武蔵は、寛永17年(1640年)に忠利公から熊本に招かれ、「五輪の書」などの兵法書を書きます。寛永18年(1641年)忠利公の逝去の際、家臣19人が殉死しました。森鴎外が書いた「阿部一族」のモデルとされています。

能楽堂


夏目漱石の句碑


鼓うつや能楽堂の秋の水

明治29年(1896年)の句。

平成29年(2017年)11月、建立。

水前寺成趣園


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