曾良の句碑

『奥の細道』東 北


卯の花をかざしに関の晴着かな

小峰城からカーナビの指示に従って、県道76号坂本白河線に入る。


しばらくすると、白河関跡がある。


 白河の関は孝徳天皇の頃に設置された関所で、勿来関念珠関と共に奥州三関の一つである。

そも此関ハ三關のひとつ也とかや不破相坂をあハせて三關といへるにや人皇三十七代孝徳天皇乃御宇にはしめて爰に關をおかれて日本関の最初也と云り世々詩歌連歌俳の人今古風を慕ハすと云事なし


白河関跡


 古くよりみちのくの関門として歴史に名を刻み、また文学の世界では歌枕として数多くの古歌に詠まれた場所である。

古関蹟碑


 寛政12年(1800年)、白河藩主松平定信がここが白河の関跡であることを確認して建立したもの。

 大正14年(1925年)7月6日、荻原井泉水は「古関蹟」の碑を見ている。

そこは関の明神から二、三町ほど行って、左右の山の迫りが少しく開けて、右手に大きな木立がうっそうとして茂っている所であった。「古関蹟」と楽翁公の筆にて大書した石が建ち、別に「是より東五十歩にて古關跡に到る」とも石に記してある。そこに今、白河神社を祀ってある所が、昔の関屋の跡というのである。

『随筆芭蕉』(関趾を越える日)

 それまで白河の関の位置は久しく不明であった。芭蕉が旅をしたのは元禄2年(1689年)。その頃白河の関はどうなっていたのだろう。

幌掛の楓

 源義家(1039−1106)が安倍貞任(あべのさだとう)(1019?−1062)追討(前九年の役)のため白河の関を通過する時、楓に幌を掛けて休憩休息をしたと伝えられる。

矢立の松

 治承4年(1180年)、源義経(1159−1189)が平家追討のため平泉を発し、社前に戦勝を祈願して松に矢を射立てたと伝えられる。

旗立の櫻

 治承4年、源義経が平家追討のため平泉を発し、社前に戦勝を祈願。旗揃えをした時この櫻に源氏の旗印を立てたと伝えられる。

「旗宿」の地名はこれに由来すると言われるそうだ。

古歌碑


 村上帝の御代(946−966)、平兼盛(?−990)が奥州下向の時、この関を過ぎ「便りあらばいかで都につけやらむ今日白川の関はこえぬと」と歌によせて都をしのんでいる。

平兼盛は百人一首の歌で知られている。

しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで

 白河の地名は「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」という能因法師の歌で世に親しまれている。

能因法師も百人一首の歌で知られている。

あらし吹く三室の山のもみぢばゝ 龍田の川のにしきなりけり

 文治5年(1189年)、源頼朝(1147−1199)の奥州征伐の折、梶原影季一首をものして「秋風に草木の露をはらわせて君がこゆれば関守もなし」と詠じて頼朝の感賞に預かったという。

松尾芭蕉「奥の細道白川の関」の碑


 心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ。いかで都へと便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良

昭和41年国指定の史跡となったことを記念して、昭和43年建立。

白河関跡周辺は「白河関の森公園」(HP)として整備それている。

白河関の森公園に芭蕉像がある。


芭蕉像の下に芭蕉と曽良の俳句が刻まれている。


風流の初やおくの田植うた

須賀川で詠まれた句である。

卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良

追分明神へ。

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