昔の旅日記
「念珠関」〜温海温泉「萬国屋」〜
羽黒山から国道7号(おばこおけさライン)に出て、日本海に沿って南下する。
道の駅「あつみ」がある。
「日本海に沈む夕日を眺められる絶好のポイント」だそうだが、夕日はどうしてもきれいに撮れない。
朝の海ならきれいに撮れる。
国道7号をさらに南下する。
新潟県との県境近くに鼠ヶ関がある。
現在は「鼠ヶ関」と書くが、古代は「念珠関」だったようだ。「念珠関」は白河関、勿来関と共に奥州三関の一つである。「史跡念珠関址」の石碑があったが、「内務省」と書いてあるので、戦前のものらしい。
また、ここは源頼朝に追われた義経が日本海を船で渡って上陸したとされる地だ。
元禄2年(1689年)6月26日(陽歴8月11日)、芭蕉と曾良は温海町に到着。鈴木左衛門宅に投宿。翌27日に鼠ヶ関を越えた。
『奥の細道』の記述は、これだけである。
国道7号から弁天島に行く道の分岐点に『奥の細道』(越後路)の俳文碑がある。
天保4年(1833年)、碓嶺は鼠ヶ関で句を詠んでいる。
鼠ヶ関
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秋立やいま迄踏し越の山
| 碓嶺
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嘉永5年(1852年)閏2月21日、吉田松陰は鼠ヶ関へ。
羽州田川郡に入る、關あり、乃ち庄内侯の置く所なり。驛鼠關と名づく。濱熱海を過ぎ大道を離れ、村里に入ること半里許り、温泉あり、是れを湯熱海と謂ふと云ふ。
明治40年(1907年)11月1日、河東碧梧桐は念珠関を訪れた。
三里来て鼠が関に着く。ねずみの関と読まず、ねずが関という。町の入口の手前に、関の戸でも立てたであろうと思われる小高みの丘がある。丘には四五本の古びた赤松がごうごうと風に鳴っておる。丘を一歩過ぎると、弁天岩というこの辺で名高い岩の景色が目の前に展開する。島の上には枝を垂れた松があって、宮島のような小さな鳥居も打ちかける浪の白沫の中に見える。
昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、鼠が關に立ち寄った。
鼠が關に立寄る、關の跡は内務省製コンクリートの大きな碑立ちあり、すぐに濱邊で、一山脈の突端、關跡をめぐつて海に入る、出羽越後の境、相當要害の場所であつたらう、
国道7号を少し戻って、県道44号に入ると、すぐ温海温泉がある。温海川に沿った小さな温泉町だ。
萬国屋に泊まる。
萬国屋のすぐそばに、与謝野晶子の歌碑がある。
さみだれの出羽の谷間の朝市に傘して売るはおほむね女
昭和10年(1935年)7月1日、与謝野晶子は温海温泉を訪れ、名物朝市風景を詠んだ。他にも「長岡に今朝雨を聞き夕べには出羽の温海の吊橋を行く」等、温海温泉で10首ほど詠んでいる。
国道345号を上っていくと、対向車が来たらどうするのか心配になるような山道になる。とても国道とは思えない。
道が広くなった所に「しな織りの里ぬくもり館」があった。
お客は誰もいない。若い女の子が一人で織っていた。東京から来たという。こんな山奥で、冬になったらどうするのだろう。
「しな織りの里」のそばに「関川の戊辰役激戦地跡」という案内があった。
「味方の戦死55人」とある。
ここで慶応4年(明治元年)9月11日から9月27日まで戦われた。関川口は荘内軍最後の激戦地だそうだ。
こんな山奥でも戊辰戦争が戦われたとは。
国道345号で鶴岡に行く。
気分が悪くなるほど暑かった。
山形自動車道で秋保温泉に戻る。
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