歴史の道 史跡案内 |
寺田寅彦は明治11年(1878年)東京生まれの物理学者です。「天災は忘れられたる頃来る」の警句で有名です。父は、元土佐藩下級武士で、明治の陸軍軍人。寅彦は、4歳の時に大川筋の家に帰り、少年時代を過ごしました。その後、熊本の第五高等学校時代夏目漱石に英語と俳句を学び、東京帝国大学時代には正岡子規と知り合いました。 生涯に300もの物理論文を発表し、また、一方で「万華鏡」「続冬彦集」「蒸発皿」「蛍光板」「橡の実」など数多くの随筆も残しています。 寅彦の少年時代の思い出は、大高坂山の緑と清らかな江ノ口川に代表される、美しく魅力あふれる豊かな自然の中でつくられ、生涯を通じ彼の心の糧となったようです。後年研究室で「実験物理学者になるのには自然をよく見ることが重要だ。」と語った寅彦は、科学者としての鋭い目と随筆家としてのしなやかな心をこの自然の中で育んだのでしょう。 |
明治16年(1883年)、土佐郡江ノ口小学校に入学。 明治26年(1893年)、高知県尋常中学校(現:高知県立高知追手前高等学校)に入学。 明治29年(1896年)、熊本の第五高等学校に入学。 明治32年(1899年)、東京帝国大学理科大学に入学。 明治32年(1899年)9月5日、夏目漱石の紹介で子規庵を訪ねる。 明治35年(1902年)9月19日、正岡子規は34歳没。 |
寺田寅彦は『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルともいわれる。 |
稲妻やかくにも 広き土佐の海 寅日子 |
明治42年(1909年)3月、寺田寅彦はベルリン大学に留学。留守中、オルガンは夏目家に預けられた。 |
昭和10年(1935年)12月31日、寺田寅彦は57歳で没。 昭和20年(1945年)7月、戦災により旧寺田邸焼失。 |
平成30年(2018年)7月24日、高知市追手筋の「オーテピア」に寺田寅彦の銅像を建立。 |