俳 人

蓑笠庵梨一

母方の高橋姓を名乗った。佐久間柳居に俳諧を学ぶ。

 正徳4年(1714年)、武蔵国児玉郡関村(現在、本庄市児玉町)の関久和の次男として生まれる。

 元文4年(1739年)、26歳の時に江戸の佐々間柳居の門に入る。

 宝暦11年(1761年)、48歳で坂井郡下兵庫村(現在 坂井町下兵庫)の代官に着任。

 宝暦13年(1763年)、50歳の時に職を辞し、丸岡に居を定める。

丸岡城


 明和2年(1765年)、梨一は吉野へ旅をする『大和紀行』。京で蝶夢を訪れる。

 明和6年(1769年)、俳諧有の儘』(闌更編)。梨一序。

 安永年中(1772〜1781)石城戸に私塾蓑笠庵を開く。

 安永4年(1775年)、木兎坊風石は象潟行脚の帰途梨一を訪れている。

   丸岡の梨一翁甚尊き人にて、数日の
   名こり尽かたくおもふ也

より添ひもよく笠脱ぬ萩の本
 木兎

  せめて月あり菊の家の水
 梨一


 安永6年(1777年)8月、象潟を訪れる。

象潟はうらむに似たりと祖翁の妙詞に、此江の風情は尽たりといふべし。されどたまたま爰に眺望して、其句のなからんは、いと本意なき業なめりと、只空吟、折にふれたるかたちのみを題して

象潟や墨絵の中に花一本
   梨一

『旅客集』(第4冊「仁」)

 安永7年(1778年)8月、『奥細道菅菰抄』(梨一自序・蝶夢跋)刊。

天明3年(1783年)4月18日、70歳で没。台雲寺に葬られた。

梨一の句碑


咲くほとに夜の間にこほす小萩かな

梨一の句

うぐひすや夜着の岩戸も明はなれ


あさがほもすゑ一輪の寒さかな


長い日は空へも遠し舞ひばり


秋立ぬ起て何着ん老の肌


しら梅の寒さも障子ひとへ也


むらむらと小魚浮立春田かな


夏の月たゞ短夜ぞ泣れける


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