私の旅日記
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2012年
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関山満願寺
〜碑巡り〜
今日は天気がいいので、白河市関辺関山の満願寺に行く。
関山登り口に『奥の細道』の俳文碑があった。
心もとなき日数重るまゝに白河の
関にかゝりて旅心定りぬ
曽良
卯の花をかさしに関の晴着哉
関山登り口から17丁ほど登ると、関山満願寺。
下馬碑があった。
永承6年(1051年)、源頼義東夷征伐の時、戦勝を本尊並に山王権現に祈願して下馬碑奉納する。
関山奉賛会
前九年役である。頼義の子
義家
も父に従って参戦。
福寿草が咲いていた。
銅鐘
関山満願寺と銅鐘
関山満願寺由緒記によると、天平2年(730年)聖武天皇の勅願によって、
行基
が光明皇后の守本尊閻浮壇金の正観世音を奉持し、山号、成就山光明院、満願寺とし、この地に創立したのが、はじめとある。
天平9年(737年)聖武天皇の勅命によって良弁僧正の金銅の正観世音を奉安され、また弘法大師が使用した、五智宝冠が重要美術品として観音堂にある。
銅鐘は、寛文4年(1664年)白河藩主、本多忠平が寄進されたもので、昭和19年に重要美術品として国の指定をうけている。
白河市教育委員会
「おくのほそ道の山」の碑があった。
「漂泊の思ひやまず」「春立る霞の空に白川の関こえんと、そゝろ神の物につきて心くるはせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず」弟子の曽良を伴って、元禄2年(1689年)、奥州へ旅立った芭蕉は、4月20日、陽暦なら6月7日、白河の地に立った。暮れ前から小雨模様であったこの夜は、関跡の旗宿に泊った。
翌8日、梅雨の霖雨も辰の上刻、午前7時半頃にはあがり、関の明神を参詣した後、風騒の2人は関山へ向かった。
歌枕
白河の関
の所在地について、現地で戸惑いを感じた芭蕉は、関山に惹かれ、旗宿より北東3粁にある、南麓の内松部落をぬけて、稲荷社と「せき山」と刻んだ石の古道標のある地点より登った。
曽良の日記
関山へ参詣。行基菩薩ノ開基。聖武天皇ノ御願寺、正観音ノ由。成就山満願寺ト云。旗ノ宿ヨリ峯迄一里半、麓ヨリ峯迄十八丁。山門有。本堂有。奥ニ弘法大師・行基菩薩堂有。山門ト本堂ノ間、別当ノ寺有。真言宗也。本堂参詣ノ比、少雨降ル。暫時止。
関守の宿を水鶏に問はうもの
芭蕉
卯の花をかざしに関の晴着かな
曽良
奥の花や四月に咲くを関の山
桃隣
昭和63年(1988年)5月、建立。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は芭蕉三回忌にあたって『奥の細道』の跡をたどり、関山に登っている。
此所山を越、白河に出、宗祇戻しへ掛
リ
、加嶋・桜が岡・なつかし山・二形山、何
(いづれ)
も順道也。是より関山へ登
ル
。峯に聖観音、聖武帝勅願所、成就山 満願寺、坊の書院よりの見渡し白河第一の景地也。
○奥の花や四月に咲を関の山
[無都遅登理 五]
成就山光明院満願寺
真言宗智山派
の寺である。
神馬堂跡
治承4年(1180年)
源義經
登山、観音様に祈願して神馬を奉納した。
関山奉賛会
宝永6年(1709年)、明式法師は関山を登り満願寺を訪れている。
關山のぼること十七八町ばかり、嶺に滿願寺とて、聖武帝の勅願所有、能因は秋風ぞ吹とながめ、頼政は紅葉散しくと讀り。春秋の季をふくみ、青葉紅葉の色をまじゆ。殊勝の姿なり。衣の袖の塵打拂ひて通る。
目白ほじろ關の白髪も吹かれ行
『白馬紀行』
元文3年(1738年)4月20日、田中千梅は松島行脚の途上、関山を通りがかる。
関山高々と茂
り
観自在王立せ給ふ茨卯の花散乱れて時ならぬ雪を拂ふ
『松島紀行』
松平定信公歌碑があった。
白川の関のあととふていきしおりの歌のうちに
関もあらは冬の日さしをととめ置きてふりしむかしのあとやとはまし
山ち行てふりさけみれは関の海や打ちよする波は只まつのかせ
この和歌は
松平定信
公が白川の関を見定めに関山にのぼり
南湖
を見て歌ったものである。
これは、天理大学付属図書館所蔵の三草集あさち松平定信の歌集で自筆である。
此の歌碑は南湖公園が開園して200周年を記念して建立した。
平成13年12月1日建立
那須連山が見えた。
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