2022年福 岡

山頭火遊歩道〜碑巡り〜
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昭和5年(1930年)11月26日、種田山頭火は木村緑平を訪ねた。

 十一月廿六日 晴、行程八里、半分は汽車、緑平居(うれしいといふ外なし)

ぐつすり寝てほつかり覚めた、いそがしく飲んで食べて、出勤する星城子さんと街道の分岐点で別れる、直方を経て糸田へ向ふのである、歩いてゐるうちに、だんだん憂欝になつて堪へきれないので、直方からは汽車で緑平居へ驀進した、そして夫妻の温かい雰囲気に包まれた。……


香春(かわら)町の金辺川沿いに山頭火遊歩道がある。



香春
 晴れざまへ
 鳥がとぶ

出典は『行乞記(二)』

昭和7年(1932年)5月1日の句。

俳人種田山頭火と香春

香春岳にはいつも心をひかれる、一の岳、二の岳、三の岳、それがくつきりと特殊な色彩と形態とを持つて峙えてゐる、よい山である、忘れられない山である

(昭和7年4月29日山頭火日記より)

漂泊の俳人種田山頭火(1882〜1940)は山口県に生まれ、44才で得度し法名を「耕畝」と言った。59才で松山市の「一草庵」で没した。

自由律俳句「層雲」の同人で全国を行脚しながらすぐれた作品を世に出し、現代の西行、芭蕉とも言われ、その生涯と禅味あふれる作品を追慕する人は多い。とりわけ田川には俳人で炭鉱医師の木村緑平氏が、彼を愛し、物心両面にわたって親身の世話をしたので、度々訪ねて来ている。冒頭の日記に見られるように、香春岳を仰ぎながら、この町を行乞した山頭火は、香春にちなんだ句を多く残している。



みすぼらしい影をおもふに木の葉ふる

出典は『行乞記(一)』

11月28日、木村緑平は種田山頭火に香春を案内する。



香春をまともに乞ひ歩く

昭和5年(1930年)2月16日、木村緑平宛葉書の句。

   香春をまともに乞ひ歩く

明日は香春を行乞して金田泊、ぽつぽつと直方へ向ひます、おたより下さいますならば、直方局留置之事、一昨夜律雨君居で句会、月次会が出来ると思ひます、お指導あつて然るべしと思ひます、奥様によろしく。

木村緑平の句碑


香春へ日が出る
 雀の子
みんな東に向く

妙好俳人緑平さん

本名木村好栄(よしまさ)。明治21年10月22日柳川に生まれる。長崎医学専門学校卒業。医学博士。学生時代より俳句に興味をもち「層雲」に投句。荻原井泉水に師事。

昭和2年から15年間、糸田、赤池で炭坑の病院に勤務。香春にも度々来遊した。行乞流転の山頭火を物心両面から支え続けた。緑平さんがいなかったら、今日の山頭火はなかったといわれる程である。雀の緑平さんといわれるだけあって雀の句三千以上。こゝ刻んだ句は、句集「すゞめ」に所収されている。

   ゆまさせる夢からさめてゆまりをさせる

この句を思い浮かべる時、

ひとりでに涙が溢れてくるのを禁じ得ない。

昭和43年1月14日急性肺炎にて逝去。

平成9年(1997年)10月、養父芳信建立。



 香春
見あけては
  虱とつて
    ゐる

出典は『行乞記(一)』

昭和5年(1930年)11月29日の句。



   すくひ
  あげられて
   小魚
かゞやく

出典は『行乞記(一)』

昭和5年(1930年)11月28日の句。

平成6年(1994年)10月、香春町養父芳信建立。本多青雲書。



鳴き
  かわしては
 寄りそう
   家鴨

昭和5年(1930年)11月28日の句。



枯木かこんで津波蕗の花

昭和5年(1930年)11月28日の句。



ふりかへれば香春があつた

出典は『行乞記(一)』

昭和5年(1930年)11月30日の句。

めづらしく予定通り、六時にはもう次良居で飲んでゐます、あれは重かつたけれど苦にはなりませんでした、今度の御礼は改めて申上げます、奥様にくれぐれもよろしく、

   見かへれば香春があつた

       (いや一升壜があつた) 山

昭和5年11月30日、木村緑平宛の寄書。



あるけばきんぽうげ
すわればきんぽうげ

出典は『行乞記(二)』

昭和7年(1932年)5月2日の句。

鳥とんで鳥のごとく、魚ゆいて魚ににたり、そこで一句――

   あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ

福岡経由、嬉野へ、嬉野へ、お大切に。

昭和7年5月24日、田代英叟(俊)宛書簡

『草木塔』に収録。

高座石寺へ。

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