2022年福 岡

木村緑平の句碑〜故木村緑平氏旧宅〜
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西鉄天神大牟田線天神駅から柳川へ。


 昭和15年(1940年)10月11日、種田山頭火は松山の一草庵で死去。享年59歳。

柳川市坂本町に故木村緑平氏旧宅があった。

木村緑平の句碑


柿の葉の落つるのも山頭火の命日らしか

 木村緑平翁(本名・好栄)は、明治23年(1888年)、現柳川市南浜武に生まれ、中学伝習館から長崎医学専門学校(現長崎大学医学部)に学び、医師として三井三池鉱業所(現大牟田市)や明治鉱業所(田川郡)の病院に勤務し、傍ら荻原井泉水に師事して俳壇に地位を得た自由律層雲派の俳人である。

 小さい生きものに思いを寄せた句が多く、とりわけ雀を詠んだ句は3000にもおよび、山頭火との共著を含めて13冊の句集が刊行されている。

 放浪の俳人種田山頭火とは親交が深く、彼を物心両面から支え、生涯「南無緑平老如来」と頼られた。

 1942年、53歳でこの屋敷に戻り、病氣の妻を介護しながら、こつこつと自由律俳句の途を歩みつづけ、昭和43年(1968年)1月14日、享年81歳で没した。

 没後間もなく、全国から寄せられた淨財で、柳城児童公園内に句碑が建立され、その後この庭内にも大山澄太氏(俳誌「大耕」主宰)によって建てられた。いずれの碑も緑平自筆の書によって刻まれている。

木村緑平顕彰会

昭和63年(1988年)10月11日、建立。

 平成6年(1904年)9月26日、大山澄太は94歳をもって「大耕舎」にて没する。

柳城児童館つどいの広場へ。

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