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日本橋を北に渡った東側には魚市場があった。天正年間徳川家康の入国より大正12年関東大震災の後京橋築地に移転するまで300年余り江戸及び東京屈指の問屋街であった。 この辺りには老舗が多い。その一つに「日本橋鮒佐」がある。古くは谷崎潤一郎や、今も井上ひさし氏、俳優の渡辺文雄や柳家小さん師匠など鮒佐の佃煮のファンだそうだ。 |

| 歳首 |
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| 發句なり芭蕉桃青宿の春 | 翁 |
貞享年中の吟、素堂其角と三ツもの有り。 |
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『芭蕉翁句解参考』に「句のすがたハいかつに聞ゆれども芭蕉とあれば、深川の菴にての吟なるべし。」とある。 寛文12年(1672年)、芭蕉は29歳の時故郷伊賀上野から江戸に出た。以後延宝8年(1680年)37歳までの8年間、小田原町(現室町1丁目)に住んだ。芭蕉の生活を支えた杉山杉風も「鯉屋」の屋号で幕府御用の魚問屋を営み、本邸は小田原町にあった。 当時「桃青」と称していた芭蕉は延宝6年(1678年)には俳諧宗匠として独立する。その翌年(延宝7年)の正月、宗匠としての心意気を詠み上げたのが、この句である。 |
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誹若土糞と云ふ。薙髪して風羅坊とも號し、又禾々軒桃青とも呼ふ。江戸の杉風といふ者(後衰杖)此翁を師として仕へて、小田原町に住しめ、後は深川に庵を結ふ。 |
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「わが松尾桃青の草庵の春は、浮世のはなやかなそれと違って、ただ発句にあるのみ」という意。 「発句なり」と言いきったところ、世の慣わしと異なる寂しさを味わいつつ、一面誇りを宣言したという感じである。 『芭蕉盥』(享保八年刊、朱拙・有隣編)に「歳首」の部に出し、「貞享年中の吟、素堂・其角と三つ物あり」と注記、『芭蕉句選拾遺』にも同旨の注記をして所収。ただし句の性格・声調からみて入庵当時の作と推定し、ここに置く。『芭蕉新巻』に中七「ばせを桃青が」、また。『芭蕉翁句解参考』に上五「発句あり」とある。 |
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七日 晴 随斎会 |
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小田原町を通りて 雁鴨の命待つ間を鳴にけり |
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『文化句帖』(文化2年11月) |
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十日 雨 |
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小田原町何とやらいへる家に鳥あまた飼置ける。
雁鴨などは首伸す事ならざる床下なるに、かれらが身にもさりがたき情あるにや、今卵われたるやうなる雛のひよひよと聞へ(え)て、又なく哀也。親々よりのなせるわざなれば、ぜひなき稼(なりは)ひなるべし。是貴人の酒食をよろこばすためならめど、雲井のよそにとぶものゝ、かゝるヲチクボに身じろぎもならぬかなしび、日夜の羽ずれに礎すりへらす。罪なく(ママ)消る期なく、終にはアツモノに備へられんと、鳥の心思ひやられ侍る。 |
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『文化六年句日記』(6月) |
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文化11年(1814年)10月10日、一茶は金谷から舟に乗り、翌11日小田原町に着く。 |
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十 晴 巳刻舟 上り夜丑五刻小田原町岸着泊 十一ノ下ニ可記 『七番日記』(文化11年10月) |
