旅のあれこれ文 学


長谷川かな女ゆかりの地

かな女の句

 明治20年(1887年)10月22日、東京府日本橋区本石町(東京都中央区)に生まれる。

 明治42年(1909年)、長谷川零余子(れいよし)と結婚。

 大正10年(1921年)10月、長谷川零余子は俳誌「枯野」を創刊。

 大正15年(1926年)7月、浦和市三室の親戚より生後1年の博を養子に貰う。

 昭和3年(1928年)7月27日、零余子は亡くなる。享年42歳。

 昭和3年(1928年)10月、「枯野」を「ぬかご」と改題し、経営は水野六山人に移り、かな女は雑詠選者となった。

 昭和3年(1928年)11月、旧浦和市岸町に移る。

 昭和4年(1929年)、第一歌集『龍膽』刊。

 昭和5年(1930年)9月、「水明」を創刊主宰。

 昭和14年(1939年)、第二歌集『雨月』刊。

 昭和18年(1943年)、「水明」は12月号で終刊。

 昭和21年(1946年)5月5日、「水明」復刊。

 昭和21年(1946年)11月19日、嗣子博は沢本知水の次女秋子と結婚。

 昭和26年(1951年)5月31日、長谷川かな女は博と北海道へ旅行。

 昭和26年(1951年)6月3日、美唄市役所に長谷川零余子とかな女の句碑建立。

 昭和28年(1951年)11月3日、調神社に長谷川かな女の句碑を建立。

 昭和30年(1955年)3月、第三歌集『胡笛』刊。

 昭和36年(1961年)4月、さいたま市別所沼公園に長谷川かな女の句碑を建立。

 昭和38年(1963年)10月、第四歌集『川の灯』刊。

 昭和41年(1966年)、紫綬褒章受章。

女人一点菊花のごとき授章式

『鳩吹き』

 昭和42年(1967年)5月、長谷川秋子『菊凪ぎ』刊行。

 昭和44年(1969年)5月、第六歌集『牟良佐伎』刊。

 昭和44年(1969年)9月22日、81歳で没。秋子「水明」主幹となる。

経本一巻りんだう絶ゆることなき部屋

『鳩吹き』

 昭和44年(1969年)9月27日、高浜年尾は長谷川かな女の葬儀に参列。

   九月二十七日 二十二日に長谷川かな女死去の報、門
   司岡崎旅館にて知る。その葬儀に参列 浦和円蔵寺

旅先に聞く訃はかなし秋の風

『句日記』(第三巻)

 昭和45年(1970年)4月、秋子は博と離婚。浦和市本太に住む。

長谷川零余子の句碑



爽やかな大地に咲きぬ花ほつほつ



木蓮に翔けりし鳥の光りかな

(東京都杉並区)

長谷川零余子とかな女の句碑


雪を見れば蝦夷ものたらず秋の蝶
   零余子

花蕗をわけて石狩川となり
   なか女

美唄市役所前(北海道美唄市)

芦芽ぐむ沼の入江の光圓す

館林文学のこみち(群馬県館林市)

曾良の句碑

西教寺(栃木県大田原市)

生涯の影ある秋の天地かな

調神社(埼玉県さいたま市)

曼珠紗華あつまり丘をうかせけり

別所沼公園(埼玉県さいたま市)

福相寺

(東京都杉並区)

羽子板の重きが嬉し突かで立つ

合田氏宅(愛媛県新居浜市松)

旅のあれこれ文 学に戻る