浦和の駅より三町ばかりの此方(こなた)、岸村と云ふにあり。社は街道より右に立たせ給ふ。今、世に月読の宮二十三夜と称せり。別当は月山寺と号して、浦和町の玉蔵院より兼帯す。(新義の真言宗、三宝院の宮に属す。)例祭は九月二十日なり。社の向拝に掲くる調神社の額は、松平信定朝臣の筆跡なり。 祭神 月読命一坐、本地勢至菩薩。(この本地仏により二十三夜の称あり。)
『江戸名所図会』(調神社) |
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当社は天照大御神、豊宇気姫命、素戔鳴尊の三柱を祭神とする。延喜式内の古社にして、古くより朝廷及び武門の崇敬篤く、調宮縁起によれば、第九代開化天皇乙酉三月所祭奉幣の社として創建され、第十代崇神天皇の勅命により神宮斎主倭姫命が参向、此の清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御倉を建てられ、武総野の初穂米調集納蒼運搬所と定めらる。倭姫命の御伝により、御倉より調物斉清の為、当社に搬入する妨げとなる為、鳥居、門を取拂はれたる事が起因となり、現今に到る。 |
調神社は「延喜式」にみられる古社です。この建物は江戸時代中期の享保18年(1733年)に調神社本殿として建立されたものです。型式は一間社流造りです。やねはもとこけら葺きであったと思われます。規模は小さいが木割りは「匠明」という書物に記されているものと一致し、本格的な設計のもとに建立された本殿といえます。また、各所にはめ込まれた彫刻も優れており、特にうさぎの彫刻は調神社と月待信仰の関係を知るうえで貴重です。なを、現社殿が建立された安政年間までこの本殿が調神社本殿として使われていました。
調 神 社 浦和市教育委員会 |
寛政3年(1791年)4月11日、小林一茶は郷里の柏原に帰る途中で調神社に触れている。 |
浦和の入口に月よみの宮あり。いさゝかの森なれど、いとよく茂りぬ。 わる眠い気を引立るわか葉哉 |
享和2年(1802年)4月6日、太田南畝は調神社を通る。 |
左に若葉の林しげりあひて、林の陰に茶屋の床几などみゆ。月の宮廿三夜堂なりとぞ。 |
天保2年(1831年)10月11日、渡辺崋山は「毛武」へ旅立ち、浦和宿で調神社のことを書いている。 |
浦和駅、駅の南に月よみの社社(ママ)あり。額に調神社とかけり。寺を月山寺といふ。 |
調宮公園句碑 神の留守句碑にあそべる子を咎めず 調宮句碑十五周年千代田にて祝賀 句碑古りぬ椿の実にも馴染み来て |
明治20年(1887年)、東京府日本橋区本石町(東京都中央区)に生まれる。 明治42年(1909年)、長谷川零余子(れいよし)と結婚。 昭和3年(1928年)、旧浦和市岸町に移る。 昭和44年(1969年)、没。 |