「葛飾閑吟集」の序文である「真間の閑居の記」に「大正5年5月中旬、妻とともに葛飾は真間の手古奈廟堂の片ほとり、亀井坊といふに、仮の宿を求む」と記している。現在の亀井院のあたりは、商店や住居がたてこんでいるが、当時は畑地の広がる寂しい土地だった。そのカヤぶきの庫裡6畳を借りて、江口章子と同棲していた。白秋31歳、章子28歳のときだった。
かつて『邪宗門』を刊行して人気絶頂にあった白秋が人妻松下俊子との道ならぬ恋で告訴され、名声は一朝にして崩れていった。しかも苦しい恋愛の後に結婚した俊子は、貧しい生活を嫌い、去ってしまった。この傷心をやわらげてくれたのが江口章子との静かな田園生活だった。「葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺のうきぐさの花」にはそうした白秋の心境が現れている。
やがて6月末、府下葛飾郡小岩村(現東京都江戸川区)に移り、「紫烟草舎」を興した。その住居は里見公園に保存されており、自筆の歌碑もかたわらに建つ。
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真間史蹟保存会

万葉集
市川には下総国国府があったので、都とは太い線で結ばれており、万葉時代市川は東国文化の中心でもあった。
市川の文学は『万葉集』に見られる真間の手古奈に関する歌数首から始まるといってよく、美貌故に不幸に落ちた悲劇の美女、手古奈を詠んだ万葉歌人に高橋虫麻呂と山部宿祢赤人とがあり、ほかに作者不詳の歌もある。
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勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手古奈し念ほゆ
高橋虫麻呂
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この反歌は、現在亀井院境内に歌碑として残されている。
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われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手古奈が奥津城処
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この歌額は手古奈霊堂に掲げられている。
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足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ
作者不詳
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この歌碑は真間の継橋の傍らに建っている。
真間史蹟保存会
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昭和10年から12年にかけて、吉井勇は真間の辺りに仮寓したことがあるそうだ。 |
市河の假寓にてこころ寂しく
葛飾の野は朝ごとに霜降れど菊もて來てふ妹(いも)の訪ひ來ぬ
白秋が飼へる鴉の裔(すゑ)ならむ朝夕鳴けど妹の訪ひ來ぬ
眞間の里てこ名手古奈の社をろがみてわれや待てるを妹の訪ひ來ぬ
こまごまと文には書きておこせども人言(ひとごと)繁み妹の訪ひ來ぬ
『天 彦』
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昭和21年(1946年)1月16日、永井荷風は市川市大字菅野(現:菅野4丁目)の大島一雄方に移り住む。
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画工もさしたる名家にてはあらざるが如し、されど近年かくの如きものを見ること稀なれば淺草觀音堂のむかしなど思出でゝ杖を留むること暫くなり。
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昭和21年(1946年)1月28日、幸田露伴は市川市大字菅野に移り住む。(永井荷風が市川に越してきた12日後のことである) |
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