やはらかに柳あをめる |
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北上の岸邊目に見ゆ |
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泣けとごとくに |
澀民村は石川啄木の郷里にして、姫神山麓の 一寒村、北上河畔の歌碑の前にて酒を酌みし ことも、はやくも二十年の昔となりぬ。 啄木のふるさとながら陸奥の澀民村はあはれなる村 夏ふかき姫神山の山なだりひとすぢ立つは何の煙ぞ 月見草ほのかに咲きて蟲鳴けば陸奥としも思ほえぬかな 北上の川風さむみ吊橋の鶴飼橋をわたりけるかも 啄木のゐし學校の校舎見え古家並見え寒き村かも 白樺の林に鳴ける蜩のこゑは世に亡き友を思(も)はしむ 啄木と爭ひし日のおもひでも淋しく歌碑のまへにたたずむ 柳なほあれど人なしみちのくの北上川の岸邊かなしも この石やいづこの山ゆ運び來てかなしき歌をかくは刻みし
『旅 塵』 |
啄木がこの地にいた頃は渋民駅はなく、好摩駅が交通の主要拠点であった。渋民村に住んでいた啄木は、東京や函館に行く際には現在の鶴飼橋の下流に架かっていた元の鶴飼橋を渡り、このあたりから鉄道沿いに好摩駅に歩いたと言われている。 |
「橋はわがふる里……」の詞書ではじまる啄木の長詩「鶴飼橋に立ちて」にうたわれているこの橋の歴史は古く、安政4年(1857年)の文書の中に「鵜飼橋流落候節云々」とある。 この場所は、北上川の流れが激しく、たえず流失をくり返し、明治以降は渡し舟による通行もしばらく続いた。下田部落の竹田竹松氏が日清戦争に応召した際仙台近くでみた吊橋にヒントを得、兵役を終えるや橋の架設に奔走し、明治30年(1897年)3月、幅5尺(155cm)、針金を数本よじり川幅一ぱいに渡した吊橋・鵜飼橋が完成し、北上川の両岸の交通が確保された。 この後いく度か架け替えられ、使われてきましたが、老朽化したため、昭和59年、当時のイメージを活かし現代的な吊橋として架け替えられた。
玉山村 |