旅のあれこれ文 学

年 譜

石田波郷ゆかりの地

 大正2年(1913年)3月18日、愛媛県温泉郡垣生村(現:松山市西垣生)に生まれる。

 大正8年(1919年)4月、垣生尋常高等小学校に入学。

 大正14年(1925年)4月、松山中学校(現:松山東高等学校)入学。

 昭和6年(1931年)10月、水原秋桜子は「ホトトギス」脱退。波郷は「馬酔木」に加盟。

 昭和7年(1932年)2月20日、上京、秋桜子と会う。

 昭和12年(1937年)、『鶴』を創刊・主宰。

 昭和16年(1941年)、郷家、松山海軍航空隊基地拡張のため移転。

   卒然家郷を失ふ

椎も古りぬわれら兄妹東京に

『風切』

 昭和16年(1941年)、那須温泉に遊ぶ。「那須野の芭蕉」

 昭和17年(1942年)6月27日、軍人会館で吉田安嬉子と結婚。

 昭和18年(1943年)9月末、千葉佐倉連隊に入隊。10月初め、華北に渡り山東省臨邑に駐留。

 昭和20年(1945年)1月22日、博多に帰還。

 昭和22年(1947年)5月、石田波郷は5年振りに松山に帰る。途次、神戸の「三鬼館」に泊まる。同行して奈良の橋本多佳子、京都の山本健吉、高砂の永田耕衣を訪問。

 昭和22年(1947年)7月、西東三鬼と九十九里浜に遊ぶ。8月、発病。

 昭和22年(1947年)9月、「現代俳句協会」設立。

 昭和22年(1947年)12月、『波郷百句』現代俳句社刊。

 昭和23年(1948年)4月、母上京、看護に当る。

 昭和23年(1948年)5月7日、清瀬の国立東京療養所に入所。母帰郷。

   母歸郷

滿点星に隱りし母をいつ見むや

『酒中花』

 昭和24年(1949年)4月、橋本多佳子は東京療養所に石田波郷を見舞う。

二十四年の四月に私が、東京療養所で三回目の手術をして、手術室から運ばれた、まだ麻酔のさめきらぬ脚にリンゲル注射をされてゐるとき、前触もなくあなたが訪ねて下さつたのでした。家内にいはれて戸口の方をみると、あなたと榎本冬一郎氏が立つてゐました、家内が私の顔に眼鏡をかけてくれると、あなたの白い顔が急に緊張したやうにみえました。三回目の手術は、私には最も虚脱感の激しいものでした。私はあなたに対つて声を出さうとしましたが」、声は出ませんでした。

「俳句研究」(昭和27年12月号)

 昭和25年(1950年)3月10日、東京療養所を退院。

 昭和28年(1953年)5月3日〜5日、谷川温泉「金盛館」で馬酔木鍛錬会。

 昭和34年(1959年)5月、虚子の跡を承けて、中村草田男 星野立子と共に朝日新聞の俳壇選者となる。

 昭和36年(1961年)10月、母危篤の報に接し帰省。

 昭和36年(1966年)、『江東歳時記』

 昭和38年(1963)5月14日、清瀬の東京病院に入院。

   波郷君は清瀬町なる東京病院にあり

網戸して森真青に癒ゆる日々

『晩華』

 昭和40年(1965年)11月11日、母ユウ郷里にて死去。

 昭和40年(1965年)12月13日、、清瀬の東京病院に入院。

   十二月十三日清瀬町國立東京病院に入院。

水仙やこたびも病さしのぞく

「馬酔木」

 昭和41年(1966年)12月13日、清瀬の東京病院に入院。

 昭和42年(1967年)9月28日、東京病院退院。

 昭和42年(1967年)10月10日、東京病院に入院。

 昭和44年(1969年)11月21日、結核のため56歳で死去。

   石田波郷君を悼む

鶴とほく翔けて返らず冬椿

『緑雲』

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