山頭火は本名種田正一、明治15年、山口県防府市に生まれた。早稲田大学文科を中退し、父と共に家業に従事したが失敗し、これから流浪の生涯が始まった。熊本に来たのが大正5年、彼が35才の時であった。酒にひたって家業を顧みず、上京したり帰熊したり奔放な生活を続けていた。大正13年、出家して禅僧となり翌年、味取観音の堂守として、読経と句作の独居を続けた。観音境内の句碑に刻まれた「松はみな枝垂れて南無観世音」の句は、当時の作である。しかし、ここも永くは続かず1年2ヶ月にして去り、以来、放浪生活を送り昭和15年10月11日、四国松山市の一草庵で波瀾の生涯を閉じた。59才であった。 山頭火は荻原井泉水の俳誌『層雲』によって自由律の俳句をよんだ詩人で「鉢の子」をはじめ7句集やぼう大な日記類があり、『山頭火全集』まで出版されており、日本の俳句史上特異の地位を占めている。 松はみな枝垂れて南無観世音
植木町教育委員会 |
大正十四年二月、いよいよ出家得度して、肥後の片田舎なる味取観音堂守となつたが、それはまことに山林独住の、しづかといへばしづかな、さびしいと思へばさびしい生活であつた。 |
松はみな枝垂れて南無観世音
『草木塔』(鉢の子) |
『山頭火句碑集』(防府山頭火研究会)によれば、9番目の山頭火句碑である。 |
この句碑は、山頭火の三十三回忌に当り、大山澄太氏が作成し植木町に寄贈されたものである。 山頭火は、大正十三年の暮から熊本市報恩寺(千体仏)の望月義庵老師について参禅修行、十四年四十四歳で出家得度して耕畝と号し、同年三月五日から味取観音の堂守として瑞泉寺に独住した。 |
平成19年(2007年)3月、植木町ライオンズクラブ結成40周年事業として建立。 |