旅のあれこれ文 学


大山澄太

 明治32年(1899年)10月21日、岡山県井原市で生まれる。

 昭和8年(1933年)3月19日、大山澄太は近木圭之介と山頭火の其中庵を訪問。

すつかり春だ。

(ママ)富黎々火さんが大山澄太さんと打合せてをいた通りに来庵、またお土産沢山、――味噌、塩昆布、蒲鉾。

大山さん自身出かけて、酒と酢と豆腐とを買うてくる、どちらがお客さんだか解らなくなつた。

樹明君もやつてくる、其中庵稀有の饗宴がはじまつた。

『其中日記(二)』

 昭和8年(1933年)9月15日、種田山頭火は広島の大山澄太の家を訪ねた。

五時広島駅着、地下道をのぼつて出札口に近づくと、大山さんのニコニコ顔が待つてゐた、うれしかつた、連れて澄太居へ。――

澄太居は予想通りで、市にあつて市を離れたところに澄太らしいところがある、葉鶏頭がたくさんあつて、とてもうつくしい。

明るい家、明るい気分。

『行乞記(広島・尾道)』

 昭和8年(1933年)11月14、大山澄太は荻原井泉水を其中庵へ案内して行った。

 昭和9年(1934年)3月23日、種田山頭火は広島の大山澄太の家を訪ねた。

おくれて九時ちかくなつて宇品着、会社に黙壺君を訪ねる、不在、さらに局に澄太君を訪ね、澄太居に落ちつく、夫妻の温情を今更のやうに感じる。

『其中日記(六)』

 昭和10年(1935年)4月30日、木村緑平を訪れる。

 昭和10年(1935年)5月1日、大山澄太は其中庵を訪れた。

あゝ五月と微笑したい。

朝、九州の旅先の澄太君から来電、一時の汽車に迎へて共に帰庵、半日愉快に飲んだり話したりした、ほんたうに久しぶりだつた。

『其中日記(八)』

 昭和14年(1939年)10月1日、種田山頭火は大山澄太の紹介状を持って高橋一洵宅を訪れた。

 昭和15年(1940年)5月27日、山頭火は広島の大山澄太を訪ねる。

海上平穏、一時宇品着、電車で局にどんこ和尚を訪ふ、宅で泊めて貰ふ、よい風呂にはいりおいしい夕飯をいたゞく、あゝどんこ和尚、どんこ和尚の家庭、しづかであたゝかなるかな、私もくつろいでしんみりした。

『松山日記』

 昭和15年(1940年)10月11日早朝、山頭火は脳溢血で死去。

 昭和16年(1941年)3月21日、一草庵に山頭火の句碑を建立。



鐡鉢の中へも霰

 昭和16年(1941年)8月、山頭火の遺稿集『愚を守る』を春陽堂書店から刊行。

 昭和20年(1945年)、愛媛県内子町に疎開。

 昭和25年(1950年)10月11日、其中庵跡に山頭火の句碑を建立。



はるかぜのはちのこひとつ

 昭和27年(1952年)12月6日、大慈禅寺に山頭火句碑を建立。



まったく雲がない笠をぬぎ

 昭和29年(1954年)10月10日、戎ヶ森に山頭火の句碑を建立。大山澄太揮毫。



雨ふる故里ははだしであるく

 昭和31年(1956年)7月5日、妙青寺に山頭火の句碑を建立。大山澄太揮毫。



湧いてあふれる中にねている

 昭和33年(1958年)9月15日、『雀のことば』大耕舎より発行。

 昭和36年(1961年)、愛媛県教育文化賞。

 昭和37年(1962年)11月3日、文化の日を記念して大山澄太らの発起により山頭火の句碑を建立。



ほろほろ酔うてこの葉ふる

 昭和47年(1972年)9月23日、熊本市の瑞泉禅寺に山頭火の句碑を建立。



松はみな枝垂れて南無観世音

 昭和48年(1973年)3月21日、一草庵に山頭火の句碑を建立。



春風の鉢の子一つ

 昭和51年(1976年)11月30日、山口市の湯田温泉に山頭火の句碑を建立。



ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯

 昭和52年(1987年)3月5日、『きょうの道のたんぽぽ咲いた:漂泊の詩人山頭火』(大山澄太著・,川本伸久編)刊。

 昭和56年(1981年)、愛媛放送賞を受賞。

 昭和57年(1982年)3月21日、防府市の天神山公園に山頭火の句碑を建立。



ふるさとは遠くして木の芽

 昭和57年(1982年)3月27日、下田市の泰平寺に山頭火の句碑を建立。



伊豆はあたたかく野宿によろしい波音も

 昭和57年(1982年)5月8日、唐津市の近松寺に山頭火の句碑を建立。大山澄太揮毫。



空へ山へまかはんにやはみたら心経

 昭和58年(1983年)11月1日、飯田市の円山公民館に山頭火の句碑を建立。大山澄太揮毫。



山しづかなれば笠ぬいでゆく

 昭和59年(1984年)12月21日、唐津市の光孝寺に山頭火の句碑を建立。大山澄太揮毫。



風の中声はりあげて南無観世音菩薩

 昭和60年(1985年)11月21日、久万高原町の大寶寺に山頭火の句碑を建立。大山澄太揮毫。



朝まゐりはわたくし一人の銀杏ちりしく

 昭和61年(1986年)10月11日、熊本市の報恩寺に山頭火の句碑を建立。



けふも托鉢こゝもかしこも花さかり

 昭和61年(1986年)11月15日、東京都荒川区の本行寺に山頭火の句碑を建立。大山澄太揮毫。



ほつと月がある東京に来てゐる

 昭和63年(1988年)、島原市の護国寺で講演会を開催。

 昭和63年(1988年)10月11日、故木村緑平氏旧宅に緑平の句碑を建立。



柿の葉の落つるのも山頭火の命日らしか

 平成元年(1989年)4月10日、田原市の潮音寺に山頭火の句碑を建立。大山澄太揮毫。



あの雲がおとした雨にぬれている

波音の墓のひそかにも

 平成元年(1989年)5月18日、四国中央市の土居高校に山頭火の句碑を建立。大山澄太揮毫。



湧いては消えては山の高さの雲の

 平成元年(1989年)10月、大山澄太の句碑を建立。



坐しては観る山のむこうの山

 平成6年(1904年)9月26日、94歳をもって「大耕舎」にて没する。

 平成7年(1995年)、『大山澄太遺稿集』(大山正風著)刊。

 平成7年(1995年)、大山正風は一周忌に大山澄太の句碑を建立。



此の道しかない一人であるく

 平成12年(2000年)6月、日尾公園に大山澄太の句碑を建立。



しぐれ通つた林の中の里

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