「猿橋」というのが地名だけでなく実際に橋があるとは、うかつにも知らなかった。 |
「甲斐の猿橋」は「岩国の錦帯橋」「木曽の棧」と並ぶ日本三奇橋のひとつだそうだ。 |
五月の甲州街道はまことによろしい。 桂川峡では河鹿が鳴いてゐた。 山にも野にもいろいろの花が咲いてゐる。 猿橋。 若葉かゞやく今日は猿橋を渡る こんな句が出来るのも旅の一興だ。 |
猿橋架橋の始期については定かでないが、諸書によれば「昔、推古帝の頃(600年頃)百斉の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る」とあり、その名は あるいは白癬(しらはた)、志耆麻呂(しきまろ)と様々であるが、これ以外の伝説は見当たらない。 史実の中では、文明19年(1486年)2月、聖護院の門跡道興はこの地を過ぎ、猿橋の高く危うく渓谷の絶佳なるを賞して詩文を残し、過去の架け替えや伝説にも触れています。 応永33年(1426年)武田信長と足利持氏、大永4年(1524年)武田信虎と上杉憲房との合戦の場となった猿橋は、戦略上の要地でもありました。 江戸時代に入り、五街道の制度が確立してから甲州道中の要衡として、御普請所工事(直轄工事) にて9回の架け替えと、十数回に及ぶ修理が行われてきました。 この間、人々の往来が頻繁となり、文人墨客はこの絶景に杖をとめて、多くの作品を今に残しています。 |
水の月猶手にうときさるはしやたには千尋のかげの川瀬に
『猿橋小集』 |
貞亨3年(1686年)、大淀三千風は猿橋を通りがかる。 |
○大月猿橋を過、上の京關柳吉野小原小佛を越て、武藏八王子青木氏に泊る。 |
元禄8年(1695年)8月11日、山口素堂は「甲山記行」の旅に出て八王子に泊まり、12日は猿橋に泊まる。 |
上野原に昼休、これより郡内領なる橋泊。橋の長さ十六間、両方より組出して橋柱なく水際まで三十三尋、水のふかさも三十三ひろあるよしをまうす。 |
明和8年(1771年)、百明は猿橋を渡る。 |
さるはしや腹にこたへる雉子の声 |
安永4年(1775年)冬、加舎白雄は「甲峡紀行」の旅で猿橋を訪れた。 |
白猿橋 猿はしにさるの声かなわたり得し
「甲峡紀行」 |
猿橋ふみしめるころは、たゞならぬ寒さなりけり。 |
甲斐がねや江戸で見て来し秋の雲 |
文化3年(1806年)6月19日、菜窓菜英は猿橋を訪れた。 |
十九日朝晴、歩行より、二瀬越て小猿橋 を過、藤野鈴木孝助の許、道の案内を 聞。俳名百石と言。諏訪の関越、郡内に入、 三ツ四ツ驛を過て猿橋に到る。 |
甲斐猿橋 橋下に雲にも入るか時鳥 |
天保12年(1841年)4月、安藤広重は猿橋を訪れたようだ。 |
昭和7年、付近の大断崖と植生を含めて、猿橋は国の名勝指定を受け今に至っています。昭和9年、西方にある新猿橋の完成により、この橋の官道としての長い生命は終わりましたが、その後も名勝として生き続けています。 今回の架け替えは、嘉永4年(18514年)の出来形帳により架けられており、江戸時代を通してこの姿や規模でありました。 昭和58年着工、昭和59年8月完成、総工費3億8,300万円であります。 橋の長さ、30.9メートル、橋の幅、3.3メートル、橋より水際まで30メートルです。
大月市教育委員会 |
嵐窓は埴科郡新田村(現更埴市新田)の人、平井竜左衛門季光。宮本虎杖の門人。 『芭蕉翁句解参考』(月院社何丸)に芭蕉が猿橋で詠んだとする句が収録されている。 |
甲斐猿橋 水くらく日のまふ谷やよぶこ鳥 愚考、呼子鳥のことは古今三鳥の伝にてむつかし。 一説に猿とも馬とも定めかたし。其角か句に猿ならば毛が三筋足らいで呼子鳥といふ句ハ則猿也。 おなじ所にて 此頃人のいふをきけば芭蕉の碑ありて さるはしや蝶も居直るかさの上 祖翁の句のよし爰に不審あり。鳥酔が句に かけはしや蠅も居直る笠のうえ といふハたしかに証拠あり。尤翁の句をしらずしてつくりたるかもしらず。是か非か我はしらず。 |
『猿橋小集』に門瑟の句として「水くらく目のまふ谷やよぶこ鳥」が収録されている。 『懐玉抄』に鳥酔の句として「かけはしや蠅も居直る笠の上」が収録されている。 |
ひたりは千仞の山雲を見上右は數十丈の巖に渓流を見おろす蜀の嶮岨はしらす爰に旅客の目さましく杖を立直す處なり かけはしや蠅も居直る笠の上 かけはしや其代を思ふ青あらし 随行 烏明
『露柱先師懐玉抄』(烏明編) |
ひだりは千仭の山を雲に見あげ、右は数千丈のいはほに渓流の燕尾にわかるゝを見おろす。蜀の嶮岨は知らず爰に旅客の目をさまし杖をたて直すところなり。 |
鳥酔居士 |
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かけはしや蠅も居直る笠の上 | 鳥酔居士 |
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岩に柵(しがら)む凌宵の蔓 | 左十 |
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よたりして引く四阿のすぐさまに | 麦二 |
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わざとも来るありしせうそこ | 如毛 |
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『おもかげ集』
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寛政6年(1794年)11月、『猿橋小集』(枕蛙窟運水編)刊。平橋庵敲氷序。 |
猿はしに宿りし時 桟や残暑に夜着を着て寝ける |