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鐘ヶ淵陸橋〜「鐘ヶ淵」の由来〜

東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅から隅田川に向かうと、鐘ヶ淵陸橋がある。


鐘ヶ淵陸橋の碑


何か説明が書いてあったが、よく読めなかった。

同所隅田河・荒川・綾瀬川の三俣の所をさして名づく。(小田原北条家の所領役帳に、千葉殿とある所領の中に、下足立三俣といへる地名を加へたり。按ずるにこの地の事なるべし。)伝へ云ふ、昔普門院といへる寺の鯨鐘(かね)この潭に沈没せりとも、又橋場長昌寺の鐘なりともいひて、今両寺に存する所の新鋳の鐘の銘にも、この事を載(あ)げたり。何(いづれ)か是ならん。

『江戸名所図会』(鐘が潭)

墨提通りを歩くと、区立鐘淵中学校の前に「鐘ヶ淵」の由来が書いてあった。

「鐘ヶ淵」の由来


 江戸時代に、うぐいすの名所として知られた鐘ヶ淵は、隅田川のうち、現在の区立鐘淵中学校のある堤通2丁目先をさす名称です。

 その地名の起りは、隅田川がこの辺で直角に曲り、れが大工の使う指矩(さしがね)に似ているところから「かねが淵」と呼ばれるようになったことによります。

 なお、ここは綾瀬川が合流することもあり、昔の舟人からは航路の難所として恐れられ、とくにその名が高くなった所です。

 後世、この名称からさまざまの伝説が生まれ、たとえば台東区の石浜にあった普門院が亀戸村に移転する際、その梵鐘(ぼんしょう)が川に落ち、今にいたるまで引き揚げられずに沈んでいるという話や、その寺を石浜の法源寺(現 保元寺)といい、あるいは橋場の長昌寺とも称し、またある将軍が家臣を水中に潜らせて、その鐘をみとどけさせたなどという話などが伝えられています。

 やがて明治の世となり、この周辺の開発が進むと、ここに紡績工場が建てられて、社名を鐘ヶ淵紡績株式会社と称したことから、後に鐘紡の名で知られるようになりましたが、昭和44年に鐘紡も閉鎖され、しだいに現今のような景観に変ってきました。

墨田区

 文化7年(1810年)3月28日、小林一茶は流山に向かう途中で木母寺から鐘ヶ淵を通りがかった。

 川の東にすこし曲たる所を鐘が淵といふ。昔普門院の釣鐘舟より落てぬしとなりけるより、かくいひ伝へるとなんかたる。あはれならくの底に生をうけし竜女さへ、御法《り》に逢ふ(う)て法土におもぶくとあるに、仏縁に引るゝ梵鐘の、なじかは蛇身となりて今の世迄浮まざらん。鐘成仏の御経は如来もとき給はぬにや。

『文化三−八年句日記写』

木母寺へ。

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