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田端文士村記念館

JR京浜東北線田端駅北口を出る。

江戸坂

 田端の台地から下谷浅草方面へ出る坂道で、坂名もそれに由来するもののようです。

 この坂の近くに、詩人の室生犀星、俳人の瀧井孝作、画家の池田輝方、池田蕉園夫妻、画家の岩田専太郎、詩人の福士幸次郎が住んでいました。坂上の左手に露月亭という茶屋があり、陶芸家である板谷波山が35歳の頃、そこで、飛鳥山焼と銘を入れた徳利と猪口を売ったことがあったということです。

東京都北区教育委員会

坂道下方に田端文士村記念館(HP)がある。


田端文士村記念館


入館料は無料。開館時間は午前10時〜午後5時(入館は4時30分まで)。

 明治22年(1889年)、上野に東京美術学校(現、芸大)が開校されると、若い芸術家が次第に集まるようになった。

 明治34年(1901年)、小杉未醒は田端へ下宿する。20歳の画学生のときだった。明治40年(1907年)、田端155番地に家を新築。大正12年、放庵と号す。昭和10年(1935年)頃から放庵を放菴と署するようになる。

 大正3年(1914年)10月末、芥川龍之介は田端に移り住んだ。以後、昭和2年(1927年)7月24日に自殺するまで田端に住む。

 24日未明に雨が降り出した。下島勲はその音を夢うつつにききながら、心地よい涼しさに眠りこんでいた。と玄関で聞きなれた芥川の伯母の声がする。妻のはまが出ている。「変だ」とか「呼んでも答えがない」などという断片が耳に入る。下島はギョッとして床の上に起き直った。

近藤富枝『田端文士村』

田端文士村記念館の案内を手に芥川邸跡に行く。

 芥川の邸跡は3軒に分割された。玄関のあたりを大河内家、台所の部分を武田家、残りを蠣崎家が占めている。そして、現在も使われている30メートルほどもある万年塀は、芥川時代のものであり、ことに武田家の使用している門は、芥川家の台所へいく通用門をそのまま使用し、そこに備えられてあるポストも、現主人の武田良一さんが、芥川を記念して往時のままにほぞんしているものだという。

近藤富枝『田端文士村』

 未醒と芥川との初会見は、未醒の日記によると大正7年(1918年)6月22日だそうだ。

関東大震災の跡、久保田万太郎が芥川邸近くに移り住む。


   大正十二年十一月、日暮里渡邊町に住む。親
   子三人、水入らずにて、はじめてもちたる世
   帶なり。

味すぐるなまり豆腐や秋の風

   田 端

崖ぞひのふみかためたる道夜長

『草の丈』

 万太郎は浅草馬道で育った。それが震災のために両親や弟妹と別れ、妻京と長男耕一と3人で、大正12年(1923年)11月、日暮里渡辺町筑波台に水入らずの暮らしとなった。ここは芥川家のある坂を下り、與楽寺、田端脳病院のすぐ裏手に当っている。朝日1本を吸う間に下島医院につけるのだから、準田端といえる場所であり、芥川との交際は深くなっていく。

近藤富枝『田端文士村』

万太郎は府立三中で龍之介の1年先輩であった。

 大正8年(1919年)、太田水穂は田端に移り住み、昭和14年まで居住した。

 大正9年(1920年)、野口雨情は約半月を田端で過ごした。

 大正10年(1921年)、竹久夢二は約半月を田端で過ごした。

 大正14年(1925年)、萩原朔太郎は田端に移り住み、約8ヵ月を過ごした。

 昭和3年(1928年)、濱田庄司は田端に移り住み、約1年を過ごした。

 昭和5年(1930年)、中野重治は田端文士村に移り住む。

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