2023年岡 山

津山文化センター〜西東三鬼の句碑〜
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津山市山下に津山文化センターがある。

昭和40年(1965年)12月25日、竣工。

昭和40年(1965年)、中村汀女は津山文化センター落成記念講演会に訪れた。

柳散る作の暮しの川添ひに

『薔薇粧ふ』

城見橋北詰に句碑がある。

昭和41年(1966年)1月11日、開館。

「朝」の像があった。


 昭和41年(1966年)5月8日、第15回中国地区會員大會記念に津山青年會議所設置。制作本郷新

百年の歩み


 ここは津山城の一角である。

 明治の新時代を迎えてここに創立された津山藩庁は、4年の廃藩置県で津山県庁となり、ついで新たに生まれた北条県の庁として、美作圏を一つにする行政の中心となった。

 9年岡山県に統合されたあとは、教学の場となって幾多の変遷をかさね、20年に津山町外6か町村組合立高等鶴山小学校、36年には町立津山高等小学校ができ、41年の学制改革で津山男子尋常高等小学校と改まり、大正昭和へと進展した。昭和16年戦時体制のもとに第一国民学校、22年戦後の新学制で第一小学校、また37年北小学校と改称した。その間実業補習学校青年学校北中学校および鶴山幼稚園の併設されるなど、幾万の人材がここで育てられた。

 さらに学校統合による校舎移転のあと、41年には市民の総意で津山文化センターが建設されるにいたった。

 思えばこの100年、この地はわが県北行政の基点として、あるいは教学の中心地として、美作文化発展の歴史を綴った。たまたま激動の日本を回顧して、明治百年祭を執行された機会に、われわれもまた思い出多いこの地に記念の碑を建て、かぎりない郷土の発展を祈る。

昭和44年(1969年)4月、津山男子校をしのぶ会設置。

昭和23年(1948年)4月、西東三鬼は津山へ初の帰郷。

文化センターの裏庭に西東三鬼の句碑があった。


花冷えの
 城の石崖
手で叩く

第4句集『変身』所収。昭和28年の句である。

昭和53年(1978年)、文化の日に津山市文化協会建立。

山口誓子はこの句碑と対面し「三鬼は石を叩き、故郷を叩いた。」と評した。自然石になぐり描きしたような大ぶりな彫りに三鬼の知的筆跡が息づいている。胸にこみ上げる郷愁を感じる句だ。

白石不舎の句碑


 佐保姫に
   合ふ
   靴をおく
花の下

平成24年(2012年)2月27日、白石不舎は88歳で没。

平成24年(2012年)9月、津山市文化協会創立記念事業で設置。

白石不舎(大正13〜平成24)は昭和23年、西東初帰津を迎え師事。

「激浪」入会。上京中新進俳人と交流。帰郷後、昭和61年俳句教室開設。平成5年西東三鬼賞設置(津山市)・継続に尽力し、全国に西東三鬼の業績を顕彰した。本名、白石哲。

津山市文化協会
綱 俳 句 会

 昭和37年(1962年)5月、白石不舎は西寺町の成道寺に三鬼の句墓碑を造り、納骨。

 昭和8年(1933年)7月3日、与謝野晶子は津山高等小学校で津山高等女学校・津山実科高等女学校の女生徒に講演。

津山実科高等女学校は現在の美作高等学校。

 美作高等学校に「うつくしき五郡の山に護られて学ぶ少女はいみじかりけれ」の歌碑があるが、工事中で見られなかった。

2023年岡 山