2009年新 潟

市振関所趾〜海道の松〜
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糸魚川市市振に市振小学校がある。


市振小学校に「市振関所趾」があった。


市振関所趾

 江戸時代初期、徳川幕府は重要な政策の一環として全国に53の関所を設け、街道行旅の人々を取り締まった。

 「市振の関」は、その53関中重要23関の1つであった。

 親不知子不知の険難の地を東方に控え、北陸道に於ける越中との国境の要衝として、寛永(1624〜)年代のはじめ幕府は高田城主松平光長に命じて、ここに関所を設けた。

関所関所で髪改める娘十七髪解けん

 この関所の特徴は、行旅の人々の検問のための番所と海上監視の遠見番所から成っていたことである。

 その敷地は、集落の西方、東西に延びる街道を挟み、東西21間、南北95間で、面積は6反6畝15歩であった。その中に「番所」「上役長屋」「足軽長屋」「遠見番所」「井戸」等があり、また西門に近く「馬ノ足洗井戸」があった。

糸魚川市教育委員会

停留所に「奥の細道市振の宿桔梗屋跡」があった。


糸魚川市文化財
芭蕉の宿 桔梗屋跡

 この地は、元禄2年(1689年)7月12日(陽暦8月26日)に俳人松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の道すがら、一夜の宿をとり

一家に遊女もねたり萩と月

の名句を詠んだといわれる桔梗屋跡である。

新潟県糸魚川市

市振の長円寺に句碑がある。

○十二日 天気快晴。能生ヲ立。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡、川原暫干ス。午ノ尅、糸魚川ニ着、荒ヤ町、左五左衛門ニ休ム。大聖寺ソセツ師言伝有。母義、無事ニ下着、此地平安ノ由。申ノ中尅、市振ニ着、宿。

『曽良随行日記』

 宝永6年(1709年)6月28日、各務支考は市振の宿に泊まり糸魚川に赴いた。

今宵は六月廿八日なりけり、市振の宿に旅寝して明れは糸魚川のかたにおもむく、是より越後の地なるへし、関の戸はいまたしのゝめのとほし火かすかにのこりて波の音こゝにちかし、

『越の名残』(支考編)

 明和元年(1764年)、内山逸峰は市振で歌を詠んでいる。

 越後国市振といふ所に、人多く集りて、世渡るわざにいそがわしき有様を見て、

   浦人の袖ほす間なくけふの市ふり捨得ぬもよしや世中


 享和3年(1803年)8月7日、伊能忠敬一行は越中泊駅に着く。その知らせが泊駅の高岡屋四郎右ヱ門から桔梗屋仁右ヱ門に届いた。

 翌8日、伊能忠敬一行は市振で昼食休み、歌村に到着。9日、糸魚川で「糸魚川事件」が起きる。

大正3年(1914年)3月17日、市振大火で桔梗屋は焼失したそうだ。

市振の町外れに「海道の松」があった。


 糸魚川市文化財
海道の松

 昔の北陸道は、この海道の松から海岸へ降りて、西からの旅人は、いよいよ寄せくる波におびえながら天下の険親不知子不知を東へ越えることになったのである。

 また西へ上る旅人は、10キロ余の波間を命がけでかいくぐり海道の松にたどりついて、ようやくホッとし、市振の宿へはいったのである。

 目通り2.5メートルで、200年以上の風雪にたえたといわれ、地元の人々からも大切に守り育てられて来たが、明治16年(1890年)には、がけの中腹に如砥如矢(とのごとくやのごとし)の国道がつき、大正元年(1912年)には汽車が通るに至り、記念の老松、忘れられようとしている。

糸魚川市教育委員会

市振海道は青海八景のひとつ。

国道8号


昭和44年(1969年)6月21日、高野素十は市振を訪れている。

   同二十一日 あらうみ主催芹北陸大会、富山呉羽山より市振を経て
   親不知へ。 市振小島利雄氏方は「一つ家に」の折の芭蕉の泊りし
   家と推測さる。

この家といふ夏の炉を一つ見る

   同二十二日 親不知ホテル

志すところのあれば開易し


『芹』

昭和47年(1972年)9月、阿波野青畝は市振を訪れている。

一つ家のその市振の月に吾

海の日のつるべ落しや親不知

『旅塵を払ふ』

昭和54年(1984年)10月、阿波野青畝は再び市振を訪れている。

   市振桔梗屋

一家にふたたび訪ね寝待月

市振の雨にはぐれし帰燕かな

『あなたこなた』

天険親不知へ。

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