各務支考

『越の名残』(支考編)


宝永5年(1708年)、越中・越後の旅の紀行。此君庵万子序。

『越の名残 上』

戊子のとし東花坊・越後にあそふ、そのあそひを四巻になして越の余波と名つく、をのをの俳諧にあそふ人といふへし、

此君庵万子

関守 糸魚川

   紀行
東華坊

今宵は六月廿八日なりけり、市振の宿に旅寝して明れは糸魚川のかたにおもむく、是より越後の地なるへし、関の戸はいまたしのゝめのとほし火かすかにのこりて波の音こゝにちかし、

これよりあら波の磯をつたひて親しらす・子しらす・犬もとり・駒かへしなと世にしらぬ嶮難の地也、右は百尺の岩壁に苔の雫したゝり、左ハ万里の波濤をあツめて青天に雷をとゝろかす、その間に道ありといへとも女波・男波の隙をうかゝひて案内の人の尻につきてこなたの岩屈(窟)よりあなたの岩のはさまにけ入、かゝる時に親は子の行衛をしらす、子ハ親の跡をかれり見されはかくおそろしき名をや世に伝へけむ、

むかし我翁の奥の細道に心をくたき、越後路の高砂子に面をこかし給へてまさしく此筋に魂をとゝめ置れしを一たひは見まくおもひかけし身のその時その労をおなしうせさらんには此たひ此けハしさを見る事よとかツくるしくかつ嬉し、

斯てすてに暮ぬへくて糸魚川の駅にいたる、九蚶・烏旧なとその外の人もつとひきたりてけふのくるしさはいふにてそなくさみ侍る

   帰興
東花坊
   直江津の人々に対して病後蘇生のこゝろを

秋の夜やあの世の咄し嘘八百

   糸魚川の人々に対して病後蘇生のこゝろを

ありかたき娑婆の日和や帰花

   対左栗老人

左栗老人ハむかし我翁の行脚をとゝめて時に此二字を得たる人也、その子に陸夜あり、フン東(※「フン」=サンズイ+「文」)あり、過角ハ竹風か跡をふむて風雅に箕裘の業をワすれす、彼ハ竹風か猶子なれはなるへし、老人かつて古翁の称名にあひて家に三子の風雅を出セる事世にありて誰かうらやまさらん、金玉ハはしめにうらやミて後にいやしともいふ也、我今左栗の二字を判するに老後の校記いとたふとし、

元禄のむかし翁と曾良と此地にしはしの行脚をとゝめて文月六日の吟を残し給ひしよりおのつから門人の数に入て香花の恩をむくひ奉る、宝永のことしは東花坊の行脚をとゝめて此供養をのふるに遁れかたき聖霊ありて造作序の一座とす、

東花坊久しく煩ひ給ひて今はかへらんの名残をおしむに比ハ長月の廿日あまりなるへし
貫仙
行秋や狐も啼て薄ちる

 心も細ふ月もあかつき
   支考

『越の名残 中』

七月十七日

此日雨はこひ風あれて越のけしきの物すさましく、さらても心地わつらハしきに今宵より痢疾に行かよひていとゝくるしさそまさりける、

八月朔日

高田より風乙のぬし菊を携きたりて病床をとハれしに

菊の陰に寝れハ我髭おもしろや
   東花坊

十八日

此日高田の人々にすゝめられて高倉の病床をうツす、その地ハ国の府なりけれハ針薬の便もあしからねハとかゝる弱(ヨロ)法師をまねき給ふ人の心こそ浅からね、

出山の像おかませむ市の秋
   東花坊

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