親不知・子不知の名のおこりについては、いくつかの説がある。 その1つは、波打ちぎわを通るときには、親は子を忘れ、子は親をかえりみるいとまがなかったことから「親しらず子しらず」だという。 一説では、寿永の昔、平清盛の弟池大納言平頼盛は、平家滅亡後も一人栄えたが、京童の悪口にたえきれず、その所領である越後五百刈村へ退隠した。 この夫をしたって、ここをを通りかかった夫人が、2歳の愛児をふところからとり落とし、波にさらわれてしまった。悲しみのあまり詠んだ歌が |
であった。この歌によって、それ以来、この地を親不知・子不知と呼ぶようになったともいう。
新潟県青海町 |
先生は、早大校歌「都の西北」また「カチューシャの唄」等の作詩者であり、郷土の文豪である。 |
かくり岩によせてくだくる |
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沖つ浪のほのかに白き |
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ほしあかりかも |
明治42年(1909年)、河東碧梧桐は親不知を訪れる。 |
親不知 蝉鳴かず空なる浪に親しめず
『新傾向句集』(親不知を見て) |
大正14年(1925年)8月26日、荻原井泉水は糸魚川の相馬御風を訪ねている。 |
私と北朗君との二人が糸魚川に相馬御風氏を訪うたのは、午後の暑いさなかであった。私達の旅の日程では、この日に糸魚川から親不知の旧道を歩き、市振へ行って泊ろうということであった。
『随筆芭蕉』(親不知を見て) |