高遠 ・なるほど信濃の月が出てゐる |
信州高遠に一泊 |
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花今日明日のその日の花へいそぎゆく | 四月十八日 |
花に夕べこれや天龍の鯉、君あるじする |
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家ずととして長芋長すぎる長さこそ |
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天正10年(1582年)2月、織田信長は、信玄亡き後の武田氏の混乱に乗じて、一気呵成の攻略に転じた。 伊那口から嫡男信忠率いる5万の兵の進攻に、恐れをなした伊那谷の諸将城主は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。 時の城主、仁科五郎盛信(信玄の五男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落して追い返し、わずか3千の手兵をもって敢然としてこの大軍を迎え撃った。古来「要害は必ず兵禍を被る」と言われるが、この城も盛信以下将兵決死の奮戦にもかかわらず、雲霞の如き大軍の前には如何ともし難く、3千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁になげつけて果てたと古書は伝えている。 この後、武田勝頼は、諏訪上原城から新府に退き、天目山で自害した。高遠城の戦いは、かの強大を誇った武田氏の最後の場となったのである。 |
帰途高遠に立寄る。高遠城 址は、天正十年織田信忠の 軍を迎へ撃ち、城将仁科信 盛の奮戦して死せるところ 今は櫻の名所なり 三句 夜櫻や城陥(おちい)りて四百年 夜櫻や仙丈ケ岳にひかる雪 夜櫻にさまよひ更けて旅愁あり 『殉教』 |
高遠出身の鉱山業者で、高遠閣建設に尽力されたことで知られている廣瀬省三郎(俳号奇璧)の句で、遠く東の方、仙丈ヶ岳を眺めて詠んだものである。 題字の「嶽色江聲」は高遠出身の近代洋画界の奇才で、独特のスタイルをもつ書家でもあった中村不折の揮毫によるものである。 |
奇璧と交流があった河東碧梧桐の句で、西方、駒ヶ岳の残雪が、駒(馬)の姿に見えるようになった情景を詠っている。 |
(ここに予が花の句碑あり) |
わたしが石である花の句に花さきかかり |
『大江』
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