延応元年(1239年)、一遍上人は伊予国道後家に河野(こうの)通広の第二子として誕生。 文永11年(1274年)、時宗を開き、大阪の四天王寺で初めて賦算(念仏札を配ること)を行う。 弘安元年(1278年)、九州で他阿真教上人と出会う。 弘安3年(1280年)秋、江刺の郡(岩手県北上市)に祖父河野通信の墓を訪ねる。 正応2年(1289年)8月23日、摂津国兵庫島の観音堂(兵庫県神戸市兵庫区松原通)で入寂。 |
昭和45年(1970年)5月23日、林霊雲作「宗祖銅像」が仙台阿弥陀寺から寄進建立された。 |
慶応4年(1868年)4月12日、遊行寺は東征軍有栖川宮大総督御宿泊所となる。供奉員は西郷隆盛。 |
市指定重要文化財(建造物) |
安政6年(1859年)に紀伊大納言徳川治宝(はるとみ)が寄進、建立されました。清浄光寺はたびたび火災にあっていますが、この中雀門は明治13年(1880年)の藤沢宿大火の際にも焼失を免れた境内現存最古の建物です。大正12年(1923年)の関東大地震で倒壊したものを、引き起こして補修し、今に至っています。向唐門(むこうからもん)造りで、高さ約6.4m、幅は約2.7m(左右柱間内寸)です。正面破風及び屋根大棟側面と鬼瓦に菊の御紋、下り棟鬼瓦に徳川家の葵紋が刻まれています。勅使門としは閉門していますが、現在は遊行上人が出立帰山する時や、開山忌行列等の諸行事に合わせて開門されています。
藤沢市教育委員会 |
大正4年(1915年)、財団法人藤嶺中学校(現:藤嶺学園)創立。前身は時宗総本山清浄光寺(遊行寺)の僧侶養成機関「時宗宗学林」である。 |
生きて居て相遇(あいあ)ふ僧や 一遍忌 静雲 |
大正9年(1920年)、河野静雲は遊行寺執事に就任。 昭和44年(1969年)4月27日、建立。 昭和49年(1974年)1月24日、86才で寂。 昭和50年(1975年)1月24日、「静雲」の碑建立。 |
この池は一名放生の池と称し、江戸幕府の記録である「徳川実紀」(元禄7年10月)の日記によれば、 |
金魚・銀魚等を放生せんと思わば、清浄光寺(遊行寺)道場の池へと命され、かつ放生の際は、その員数をしるし、目付へ届出づべし。 |
と記録されている。 古来より由緒あるこの池に金魚、鯉等を放生すれば、その功徳により家内の繁栄は勿論のこと長寿を保つとされている。 |
糞掃衣(ふんぞうえ)裾の短く くるぶしも臑(すね)もあらはに |
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わらんぢも 穿(は)かぬ素足者(は)国々の 道の長手能(の) |
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土をふみ 石をふみ来て にじみたる 血さへ見ゆがに |
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以(い)たましく 頬こけおちて おとがひも しゃくれ尖るを |
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眉は長く 目見(まみ)の静けく たぐひなき 敬虔(けいけん)をもて |
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合せたる 掌(て)のさきよりぞ 光さへ 放つと見ゆれ |
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伊豫の国 伊佐庭(いさにわ)の山乃(の) み湯に来て 為すこともなく |
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日をかさね 吾者(は)遊ぶを こ能郷(のさと)に 生れな可(が)らも |
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こ能(の)み湯に 浸るひまなく 西へ行き 東へ往(ゆ)きて |
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念佛(ねぶつ)もて 勧化(かんげ)したまふ みすがたを |
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ここに残せる 一遍上人 |
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川田 順 |
明治15年(1882年)1月15日、川田順は東京市浅草区三味線堀に生まれる。佐々木信綱の高弟。 昭和21年(1946年)秋、松山市宝厳寺にあった木彫の一遍上人像(重要文化財)を拝して作詩されたという。 昭和41年(1966年)1月22日、死去。 昭和53年(1978年)4月3日、建立。 |
感傷も 今宵はよろし 開山忌 あがないてもつ 葡萄の房を 俊人 |
明治31年(1898年)8月4日、高橋俊人は藤沢大阪町に生まれる。若山牧水に師事。 昭和51年(1976年)1月13日、没。 昭和52年(1977年)1月、歌碑建立。 |
戦後遠し 働く蟻と 迷ふ蟻 |
昭和3年(1928年)6月30日、青木泰夫は生まれる。 昭和63年(1988年)3月11日、没。 昭和63年(1988年)9月18日、句碑建立。 |