2021年兵 庫

円教寺〜奥の院〜
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摩尼殿から三之堂(みつのどう)に向かう。


大 仏


●姫路城主・本多家の墓所●


 5棟の堂は、本多忠勝・忠政・政朝・政長・忠国の墓です。本多家は江戸時代、初期と中期の2度、姫路城主になりました。忠政・政朝・忠国の3人が姫路城主です。

 忠政は、池田家のあとをうけて元和3年(1617年)、桑名より姫路に移り、城を整備したり船場川の舟運を開いた城主です。政朝は、忠政の二男で、あとをつぎました。忠国は、2度目の本多家の姫路城主で、天和2年(1682年)に福島より入封しました。

 忠勝は忠政の父で平八郎と称し、幼少より家康に仕え徳川四天王の一人。長政は政朝の子で、大和郡山城主になりました。

 堂のない大きな2基の五輪塔は、忠政の子・忠刻(ただとき)と孫・幸千代の墓です。忠刻は、大坂城落城後の千姫と結婚し、姫路で暮らしましたが、幸千代が3歳で死去。忠刻も31歳で没し、ここに葬られました。忠刻の墓のうしろには、殉死した宮本三木之助と岩原牛之助。三木之助に殉死した宮田角平衛の墓が並んでいます。

円教寺大講堂


国指定重要文化財である。

 大講堂は、食堂、常行堂とともに「三之堂(みつのどう)」と称され、修行道場としての円教寺の中心である。建物をコの字型に配置した独特な空間構成で、かつては東北の高台に五重塔も建てられていた。

 大講堂は、円教寺の本堂に当たる堂で、「三之堂」の中心として、お経の講義や論議などを行う学問と修行の場であった。永延元年(987年)の創建以来、度重なる災禍に見舞われたが、現大講堂は下層を永享12年(1440年)、上層を寛正3年(1462年)に建立したものである。雄大な構造で、和洋を基調とした折中洋式に、内陣を土間とした天台宗の伝統的な本堂形式となっている。極めて古典的で正当な洋式を駆使しながら、一部に書写の大工特有の斬新な技法を用いており、創建以来の伝統を残しながら、時代の要請を取り入れて存続してきた貴重な建造物である。内陣には木造釈迦如来及両脇侍像(平安時代・国指定重要文化財)が安置されている。

常行堂


 食堂は「三之堂」のひとつで、修行僧の寝食のための寮であった。かつては教興坊、後に三宝院と称されていた。度重なる災禍に見舞われており、現在の建物は、寛正年間(1463〜1466)頃の再建と推定される。別名「長堂」と呼ばれる通り、桁行約40メートルの長大な建築で、現存する総二階建ての仏堂としては他に類例がなく、国内最大規模を誇る。

 天正6年(1578年)、三木城主別所長治が反旗を翻し、上月(こうづき)城も陥落、官兵衛の進言により秀吉は姫路城から円教寺に本陣を移す。

 平成26年(2014年)、円教寺はNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」のロケ地となった。

食堂から本多家の墓所を見下ろす。


弁慶鏡井戸


 書写山には武蔵坊弁慶が少年時代を過ごしたという伝説があり、この鏡井戸や勉強机が今に伝えられている。

 昼寝をしていた弁慶の顔に、喧嘩好きな信濃坊戒円がいたずら書きし、小法師2、30人を呼んで大声で笑った。目を覚ました弁慶は、皆がなぜ笑っているのか分からない。弁慶は、この井戸に映った自分の顔を見て激怒し、喧嘩となる。その喧嘩がもとで大講堂をはじめ山内の建物を焼き尽くしてしまったと言われている。

姫路市教育委員会

寛政7年(1795年)3月12日、一茶は書写山に登っている。

 是より笹峠などてふ山を越して、半里ほどゝ覚ゆ、書写の分(わかれ)道のあれば、同行三人登山して、三ッの道、奥院、女人堂などいへる有り。夕暮になれば荒増に巡拝して、麓の農家に宿。七里。


奥の院へ。


 昭和43年(1968年)3月15日、高浜年尾は書写山円教寺で姫路ホトトギス会。

   三月十五日 姫路ホトトギス会 書写山円教寺

枯蔓をおどろに山の木々の春

奥の院迄の岨みち雪解くる

かしぎたる式部歌塚雪解風


不動堂


延宝年間(1673〜1681)に堂を造り、明王院の乙天護法童子の本地不動明王を祀る。元禄10年(1697年)堂を修理し、荒廃していた大経所を合わせて不動堂とした。俗に赤堂と呼ばれていた。乙天童子の本地堂であるが、若天童子のそれはない。一説には、若天はその姿があまりに怪異なため人々が恐れたので、性空上人が若天に暇を出したともいわれている。

護法堂拝殿(弁慶の学問所)


奥之院の広場をはさんで護法堂と向かい合っている。このように拝殿と本殿(護法堂)が離れて建てられているのは珍しい。今の建物は天正17年(1589年)に建立されたもので、神社形式を取り入れた仏殿のような建物で、一風変わった拝殿である。

この拝殿はその昔、弁慶が鬼若丸と呼ばれていた頃、この山で修業をしたことから、「弁慶の学問所」と呼ばれている。今もその勉強机も残っている。(食堂に展示中)。

護法堂(乙天社と若天社)


国指定重要文化財である。

性空上人が康保3年(966年)当山で修行中、いつも傍らで仕えた乙大護法童子と若天護法童子を祀る祠である。乙天は不動明王、若天は毘沙門天の化身で容貌は怪異であるが怪力、神通力を持ち、上人の修行を助け、上人の没後はこの山の守護神として祀られている。同寸同形の春日造で、小規模ながら細部の手法にすぐれ、室町末期の神社建築の特色をよく表している。向かって右が乙天社、左が若天社。

開山堂(奥の院)


圓教寺開山の性空上人をまつったお堂で、堂内の厨子には上人の御真骨を蔵した等身大の木像が納められている。

寛弘4年(1007年)上人の没年に高弟延照が創建、弘安9年(1286年)に焼失。現存のものは、江戸期寛文11年(1671年)に作り替えられたもの。

軒下の四隅に左甚五郎の作と伝えられる力士の彫刻があるが、4力士のうち北西隅の1人は、重さに耐えかねて逃げ出したという噂がある。

伝和泉式部歌塚塔


 高さ203cmの凝灰岩製の宝塔印塔で、塔身各面に胎蔵界の様子(梵字)を刻み、天福元年(1233年)の銘がある。県下最古の石造品であり、和泉式部の和歌「暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月」にちなむ和泉式部歌塚と伝えられる。

 この歌は長保4年(1002年)〜寛弘2年(1005年)に詠まれ「法華経」の「化城喩品(けしょうゆほん)」をもとに悟りへの導きを願い性空上人に結縁を求めた釈教歌と呼ばれるもので、勅撰「拾遺和歌集」に収録されている。性空上人は「日は入りて月まだ出ぬ たそがれに掲げて照らす法(のり)の燈(ともしび)」の返歌をしたといい、また、建久7年(1196年)〜建仁2年(1202年)に成立した「無名草子」には和泉式部が性空上人からこの歌の返しに贈られた袈裟を身につけて往生を遂げたと説話を載せている。

姫路市教育委員会

金剛堂へ。

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