2011年三 重

九華公園〜桑名城跡〜
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桑名市吉之丸の揖斐川に面して九華公園がある。


九華公園のさくら


さくらまつりはライトアップ中止。

九華公園

 昭和3年(1928年)、楽翁公(松平定信の隠居後の号)没後100年祭を記念して、当時の桑名町が桑名城跡の本丸・二之丸一帯を公園として整備しました。

 城にはよく地形や形から別の名前が付くことがありますが、桑名城はその形から「扇城」と呼ばれました。桑名城跡には九華(きゅうか)公園という名前が付いていますが、「九華」は「くわな」と読ませ、江戸時代から使用されていました。これは中国に九華扇という扇があり、扇城の名と「くわな」の読みにかけて付けられたということです。

本多忠勝公の像


 天文17年(1548年)、徳川家の重臣本多忠高の子として三河(愛知県岡崎市)で生まれ、幼名を鍋之助のち平八郎と称した。

 永禄3年(1560年)、13歳で大高の役に初陣以来、大小50余の緒戦に出陣し、ついに1度も負けることなく、1ヵ所の傷をも負わなかった。

 天正18年(1590年)、徳川家康公関東入国の時、忠勝公は上総(千葉県)大多喜、10万石を与えられた。

 慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦に従い、戦功により同6年、伊勢桑名10万石に転封された。

 桑名に入部した忠勝公は、木曽三川や伊勢湾の水運を利用して発展してきた港町を城を中心にした城下町に造り変えるという大規模な都市再開発事業を断行した。これを「慶長の町割」という。桑名で計画的に町づくりが行われた最初である。

 港町、城下町、宿場町という3機能を合わせ持つ桑名の基盤造りは忠勝公の第一の功績である。

 忠勝公は「徳川四天王」の一人と称えられ、家康公の信任極めて厚く、有能で剛勇の武将であった。

 慶長14年(1609年)致仕し、嗣子忠政に家督を譲り、同15年、63歳で没した。

 西岸院殿長誉良信大居士と号し、桑名浄土寺に葬られている。

 元和3年(1617年)7月14日、本多忠政は姫路城主となって15万石を領した。松平定勝が山城伏見藩5万石から6万石加増の11万石で入った。

鎮国守国神社に松平定綱(鎮国公)と松平定信(守国公)祀られている。

 寛永12年(1635年)、松平定行は松山藩15万石に移封。定行の弟定綱は美濃大垣藩より桑名に入る。

 天明4年(1784年)、白河城内に松平定綱(鎮国公)を祀る。

 文政6年(1823年)、松平忠堯(ただたか)は武蔵藩へ転封。松平定永が白河藩より桑名に入る。

幕末の桑名藩第4代藩主松平定敬(さだあき)は、会津藩主松平容保の実弟。

蟠龍櫓


蟠龍櫓について

 桑名城には、元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったと記録されています。このなかでも、川口にある七里の渡に面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。

 蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされる正保年間(1644〜48)作成の絵図にも既にその姿が描かれています。蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802年)刊の「久波奈名所図会」で七里の渡付近の様子を描いた場面です。この絵では、単層入母屋造の櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。

 「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いられています。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。

 文化3年(1806年)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物「臥龍の瓦は当御城門乾櫓上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。ゆへに、海魚往ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。

 文化2年(1805年)11月8日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で桑名に泊まる。

小向(ヲブケ)村をへて桑名の城にいり、福島屋作左衛門がもとにやどりとれり。此所の本陣丹羽善九右衛門來りて物語れり。去年みし人々もつとゐて、旅寢とも覺へず。


 嘉永4年(1851年)3月25日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、桑名の城外に泊まる。

庄野・石藥師・四日市を過ぎて桑名の城外に宿す。


 嘉永6年(1853年)5月12日、吉田松陰は江戸に行く途中、桑名に至る。

四日市を過ぎて桑名に至り、森伸助を訪ふ。行程十里。桑名の戸口は津と相如く。


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