『奥の細道』東 北


〜飯坂温泉〜

 東北自動車道福島飯坂ICから国道13号に入り、県道3号で福島交通飯坂線に沿って、飯坂温泉へ。


福島交通飯坂線の終点、飯坂温泉駅の前に芭蕉像がある。
飯坂温泉芭蕉像

元禄2年(1689年)5月2日(新暦6月18日)、芭蕉は飯坂温泉に泊まった。

 其夜飯塚にとまる。温泉あれば湯に入て宿をかるに、土坐に筵を敷てあやしき貧家也。灯もなければゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入て雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤蚊にせゝられて眠らず。

川ヲ越、十町程東ニ飯坂ト云所有。湯有。 村ノ上ニ庄司館跡有。下リニハ福嶋ヨリ佐波野・飯坂・桑折ト可行。上リニハ桑折・飯坂・佐場野・福嶋ト出タル由。昼より曇、夕方より雨降、夜ニ入、強。飯坂ニ宿、湯ニ入。

『曾良随行日記』

 当時は「飯塚」と言ったようだ。『奥の細道』で芭蕉が温泉に入ったことを書いているのは、この飯坂温泉と鳴子温泉、山中温泉の3つだけ。

飯坂温泉の滝ノ湯跡に「俳聖松尾芭蕉ゆかりの地」の碑がある。

摺上川に十綱橋が架かる。

十綱橋由来

 みちのくの とつなの橋に くる綱の

   絶やすも人に いひわたるかな   千載集

 平安の頃、この地に藤づるで編んだ吊橋がかけられていた。文治5年(1189年)大鳥城主佐藤元治は、義経追討の鎌倉勢を迎え撃つため、この橋を自らの手で切り落とし、石那坂の合戦に赴いた。その後は両岸に綱をはり舟をたぐる「とつなの渡し」にたよったが、摺上川はたびたび氾濫する川で、舟の往還にも難渋した。

 明治6年(1873年)盲人伊達一、天屋熊坂惣兵衛らの努力によりアーチ式の木橋が架けられ「摺上橋」と命名されたが、1年ほどして倒壊、同8年に宮中吹上御苑の吊橋を模して10本の鉄線で支えられれた吊橋が架けられ「十綱橋」と名づけられた。大正4年(1915年)橋の老朽化に伴い、当時としては珍しい現在の十綱橋が完成された。昭和40年(1965年)に大補修が加えられ、飯坂温泉のシンボル的存在となっている。

 飯坂の はりかねばしに 雫する

   あづまの山の 水色の風   与謝野晶子

福島飯坂ライオンズクラブ

 元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、飯坂温泉に泊まっている。

是より庄司の館の跡丸山といふを見て。飯坂といふ所に宿る。此所温泉あり。足の痛もあれば。ひと日ふた日浴し。夫より葛の松原に懸る。


 延享4年(1747年)、横田柳几は陸奥を行脚し、飯坂温泉に入っている。

   飯阪の温泉に入て

萍の身や湯壷にも尻ためず
    几


 明和元年(1764年)、内山逸峰は鯖湖湯に泊まり、歌を詠んでいる。

 それよりも鯖湖の御湯といふにやどる。此出湯は歌枕なれば、わざと求めてぞとまりける。身のいたみの有けるも出湯あみければ、よろしくぞ覚えければ、

   やむをめぐむ神こそまさめいざやさばこのみゆる山の奥をたづねん


 明治26年(1893年)7月25日、正岡子規は福島から人力車で飯阪温泉に赴く。

 福島より人車を驅りて飯阪温泉に赴く。天稍曇りて野風衣を吹く。涼極つて冷。肌膚粟を生ず。湯あみせんとて立ち出れば雨はらはらと降り出でたり。浴場は二箇所あり雑沓芋洗ふに異ならず。

夕立や人聲こもる温泉の煙


 飯坂温泉共同浴場「鯖湖湯」に与謝野晶子の歌と正岡子規の句が並刻されている。


わがひたる寒水石の湯槽にも

   月のさしたる飯坂の里
   与謝野晶子

夕立や人声こもる温泉のけむり
   正岡子規

 明治44年(1911年)8月、与謝野晶子は飯坂温泉を訪れた。

 昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、飯坂温泉に泊まった。

 此の飯坂に於て、土座にむしろ敷きたる、あやしき貧家に芭蕉翁は持病を抱いて明かした。今の飯坂は東北屈指の温泉場、昨夜の暮、何處に泊らう、あの柳のある家にしようと云つた其宿は、此町の第3、4流のものか知れぬが、川に臨んで三層をたゝみ、なかなか立派な構え、夜は酒くみかはし、朝も朝酒名物箱入納豆をしたゝかに参つて、鼻唄交りに立つて來た、


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