12世紀の初め、藤原氏が奥州を支配し平泉に都城を構え、その一族の佐藤氏が信夫荘の荘司(湯の荘司とも称さる)となり、ここに居城を構えた。親族の西行法師が陸奥を旅し、この地に安らぎを求めた間は小平泉の観を呈し、賑わいをみせていたといわれている。
城主元治(もとはる)の子継信・忠信は義経に従って出陣、継信は屋島にて義経の身代り戦死、忠信は吉野山にて義経一行を救うも捕われて京都にて自刃、城主もまた文治5年8月、義経追討の鎌倉勢を石那坂に迎撃し戦死、同月13日落城。
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大鳥神社

祭神 佐藤基治侯継信侯・忠信侯
吉川英治撰文大鳥城誌

昭和33年(1958年)11月建立
元禄2年(1689年)5月2日(新暦6月18日)、芭蕉は佐藤基治の旧跡を訪れた。
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『奥の細道』には「五月朔日の事也」とあるが、これは文学的虚構。
「丸山」が現在の舘の山公園らしい。
梺(ふもと)の「大手の跡など」に「泪を落し」ただけで、「かたはらの古寺」医王寺に向かったようだ。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は医王寺から佐藤庄司の旧跡を訪れ、句を詠んでいる。
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佐藤庄司旧跡、丸山城跡アリ。南殿桜夜の星是名水の井也。庄司墓所、一門石塔、次信・忠信石塔有。
○星の井の名も頼母しや杜若
○丸山の構も武き若葉哉
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元文3年(1738年)4月22日、田中千梅は松島行脚の途上、佐藤庄司の旧跡を訪れている。
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うへの山ハ大鳥の城庄司代々の居城也本丸二之丸大門の跡とて教ゆ丸山ハ勢揃の場とそ
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安永2年(1773年)、加舎白雄は佐藤氏の旧館を訪れた。
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鯖野のさと佐藤氏の旧館たづねげにやおもふ。次信忠信故郷はるかにひとりのみかふたり迄君のいのちにかはりし事よ、こゝにいたりてふたゝび其篤を感じ侍りぬ。
いのちふたつ露やすからぬむかしかな
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岩間乙二も句を詠んでいる。