俳 人
野村白寿坊
幕府の御家人。江戸下谷徒士町に住む。野村信我。美濃派(以哉派)七世道統。道元居。敲月。
天明2年(1782年)年末に田上菊舎は白寿坊道元宅に着き、年を越す。
寛政2年(1790年)3月10日、朝暮園傘狂は京都東山雙林寺で主催芭蕉百回忌取越法要を主宰。田上菊舎も参列する。11日、大坂へ下り、12日、大坂在勤の野村信我と会う。
寛政6年(1796年)、『追善弔古々路』(菊舎編)刊。白寿坊序。
山岳も低く滄海も浅き雅恩を忘れず、此たび帰郷の通りがけ、朝暮先師の墳墓へ詣拝せんとある菊舎風尼のさゝやきを、尤とうなづきやるにぞ
| 東武
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行て経よめうぐひすの笠つゐて
| 白寿坊
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台東区上野の不忍池弁天堂に「芭蕉翁」の碑がある。
寛政年間、白寿坊信我建立という。
寛政10年(1793年)、喫茶仙白兎は芭蕉の句碑を建立。白寿坊書。
此あたり目に見ゆるものハ皆涼し
佐嘉城に此叟ありと風雅の名を鳴ら
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せし菊壱僧、多年のやまひ治しかた
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く終に安養界へ遷化とのしらせに驚
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き、悼み侍りて
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| 東武
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薫るほとかほりて菊の凋みしか
| 白寿坊
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享和元年(1801年)、十方庵画山『残夢塚供養』(菊亮編)刊。朝暮園傘狂序。白寿坊跋。
享和3年(1803年)3月9日、美濃へ旅立つ。『春の首途』
文化3年(1806年)3月、白寿坊は「永観堂連塔」を建立。田上菊舎は建碑式に参列。『道の花』。
文化3年(1806年)4月12日、有時庵此由は芭蕉の句碑を建立。白寿坊書。
古池や蛙飛込む水の音
文化6年(1809年)、垂井町の本龍寺に「作り木塚」を建立。白寿坊書。