中山道


『岐蘇路記』(貝原益軒)

貞享2年(1685年)、貝原益軒は木曽路の旅をする。

貝原益軒は筑前黒田藩の朱子学者。名は篤信。『女大学』『養生訓』で知られる。

正徳4年(1714年)、没。

木曾路之記 上 ・ 

○江戸是より以下武州也。是豊島郡。より板橋へ二里十町。

板橋より蕨へ二里、此間戸田の渡あり。此川水上は秩父山より出る。川上を入間川といふ。下は淺草へ流る。角田川是なり。都鳥の名所、伊勢物語にも見えたり。

より浦和へ一里半。

浦和より大宮へ一里十町。

○大宮より上尾へ二里。

上尾より桶川へ一里に近し。

桶川足立郡より鴻巣へ一里卅町、桶川の町、家數百軒許あり。

鴻巣より熊谷へ三里半(イニ四里八町)、鴻の巣、民家百三十軒許、町の出口より右の方に日光へ行く道有り。此邊阿部豊後守殿領内、箕田村の中に八幡あり。是渡邊の綱が社也。綱は祖父より以來箕田に在し故、箕田の源次と號す。まいつな村人口、右方豊後守殿城へ行道有り。

熊谷より深谷へ二里卅十町、熊谷の町屋百ばかり。熊谷次郎直實住せし所也。熊谷が寺有り。木像あり。是より秩父へ三里半有。秩父山は武藏が峯共云。高山也。江戸の榎土手よりみゆる。江戸より坤(ひつじさる)の方に當。秩父山の下、畠山という所に、畠山重忠宅の跡あり。城のごとし。江戸より畠山へ十六里有。熊谷より本多へ二里半南にあり。永井へ二里半北にあり。是實盛が住し所也。玉井村茶家有。

深谷より本庄へ二里廿九丁、深谷家數三百ばかり。此間に岡部村あり。岡部の原名所也。古歌有。岡部六彌太忠澄舊宅あり。駿河の岡部に六彌太宅有といふは虚説之。此間に小川有。小川よりこなたは本庄に及ぶまで兒玉郡なり。

本庄より新町へ二里、本庄町屋百ばかり。酒井采女殿領分也。

新町より倉加野へ一里半、新町の民家二百許。町の出口に橋有。是より酒井雅樂頭殿領分也。岩鼻村、かんな川。武藏・上野の境也。天正年中瀧川佐近将監と北条氏政と合戦したる所也。かんな川の渡上より間部越前守殿領分也。

倉加野より高崎へ一里半、是より以下上州也。倉加野町屋二百四五十軒。町中より眞向に淺間見ゆる。高崎より廿町ばかり前に佐野へ行道有。高崎の東にあり。道より西に佐野村あり。佐野舟橋を渡せし川有。名所也。古歌多し。舟橋をつなぎし木なりとて、近き比まで有しと云。今はなし。佐野源左衛門恒世が舊宅も佐野に有。定家の森、定家の明神有。名所にはあらず。

高崎より板鼻へ一里三十町、高崎の町屋千軒許。左の方に間部越前守殿城有。高崎の邊より信濃の淺間の嶽よくみゆる。高崎の南に高き岡あり。是によつて高崎と號するならん。其岡の後に舘と云村有。煙草を多く作るたてたばことて、當世の名物也。高崎の邊にも煙草多く作る。

板鼻より安中へ三十町、板鼻の町屋百余軒。此地は酒井雅樂頭殿領分なり。中宿より内藤山城守殿領分也。板鼻の南に高き山有。一之宮と云明神有。是上野の貫前明神なるべし。

○安中より松井田へ二里十六町、安中の家數五百許。内藤山城守殿在所なり。二萬石付。碓日川に橋あり。左に妙義山へ行く道有。妙義山へ行には道より往來一里の寄也。前に毘琶の首と云所に坂有。江戸より是まで平地也。坂なし。

○松井田より坂本へ二里、松井田家數四百軒ばかり。この地を松枝共云。此間に横川と云所に關所あり。箱根の關のごとく往來のあやしき人をとむ。妙義山は松井田の南、道の左に有。此山は松井田より坂本の西まで、凡五里ばかりつゞきたる岩山也。故(かるがゆゑ)に山上には草木なし。他所にはなき程の珍しき山也。麓の高き所に堂有。其前坂の上に二町程なる町有。民家きれい也。妙義山へ参詣する者の休息する所也。馬もあり。町の東の家より東の方を望めば、上州・武州、眼下に見えて好景也。町より石の階を登りゆけば堂有。妙義法師を安置せし所也。靈験ありとて、関東の人民は甚尊敬渇仰をなす。故に人の参詣常に多くして、繁盛の地也。堂の側に別當の寺有。堂の前に新敷衣きたる女巫(かんなぎ)、常に二十餘人並居たり。参詣の人女巫に逢て、御託をきかんといへば、託をのべて各其人の行さきの吉凶を告る。妙義法師は、比叡の山の法牲坊尊意也という。延喜帝の御時の人なり。此の山を白雲山と號す。奥院へ麓より一里有。中の嶽と云。道さがしといへり。尤靈地なりと云。此山世に類なき寄異成形状なれば、神靈ある事むべなり。かかる名山には必靈あり。故に祈れはしるしあり。松井田と坂本の間に世俗にいはゆる。ゆり若大臣の足あとの岩と云あり。凡ゆり若大臣と云人古書に見えず。世俗のいひ傳ふること信じがたし。但日本武尊をあやまりてかくいひ傳へけるか。此邊は日本武尊とほり給ひし道也。又豊後築前にも百合若大臣の古跡有。強力武勇ありてつよ弓引し人なりといひ傳ふ。日本武尊筑紫にも下り給ひ、武勇はなはだすぐれたる人なれば、若此人をや、かくいひ傳へけん、いぶかし。然れ共世に云傳るは、嵯峨天皇の御宇に、四條左大臣公光の子百合若大臣九州の惣司として下り、豊後に住せられしといへば、日本武尊とは時代ちがへり。

坂本より軽井澤へ二里三十町、坂本の人家百三十軒許。是より坂を越て碓日嶺へ上る。左に入合の瀧有。名所にはあらず。うすひたうとうげは坂西より坂東に入る境にある山也。東海道の足柄山箱根山のごとし・されど足柄・箱根の如く、險難にはあらず。坂本の上碓日嶺の下に、長くさし出たる山有。其坂石多くてさかし。盤石坂と云。其坂を上りて平なる山を行。又碓日嶺に上る。是はさがしからず。碓日坂より東をかへりみれは、武蔵・下総・常陸・上野などの山、東の諸國みゆる。筑波山尤よくみゆる。昔日本武尊東征し給ひ、碓日嶺より辰巳の方を望て、弟橘姫をしたひ三度嘆て、吾嬬者耶とのたまひしは此所成べし。是より山東の諸國を吾嬬國と云と、日本記の景行記に見えたり。碓日嶺に茶家有。町有・冬春は雪ふかし。右に熊谷(ゆや)権現有。此所上野・信濃の境也。昔碓日嶺にて新田義貞の三男武蔵守義宗と足利將軍尊氏と合戦ありし事、太平記に見えたり。

碓氷峠


○輕井澤信州佐久郡以下信州より沓掛へ一里五町、輕井澤家四十許。碓日嶺より是迄半里くだる。是より淺間の嶽の麓也。淺間嶽は北に有。此所を遠近の里と云。伊勢物語の歌によりて、後の人名付けらし。凡江戸より坂本迄平地なれ共、漸(やうやう)上る故、坂本も地形高し。坂本より碓日迄二里十町許上りて、碓日より輕井澤迄わづかに半里下るゆゑ、此地は諸國より甚高し。凡信濃は日本の内にて尤地形高き所也と云。其故は海遠くして山上に有國也。四方の隣國より信濃に行には皆のぼる。甲斐・飛騨も地高く陰気ふかしといへ共、信濃はなをまされり。故に冬春は雪ふかく甚寒し。北國は信濃より雪深けれど地ひきゝゆゑ、信濃よりはあたゝか也と云。就中輕井澤・沓掛・追分は三宿共に淺間が嶽の腰に有て、其地尤も高し。此の三宿の間、南北半里許、東西二三里程、たいらなる廣野有。寒さ甚くて五穀生ぜず。たゞ稗・蕎麦のみ生ず故畠少し。又菓(このみ)の樹なし。民屋にも植木なし。不毛の地といひつべし。昔上杉憲政より藏沼六郎を將として二萬余人上州白井より此地へ發向す。武田信玄より板垣信形を將として、輕井澤に出合て戦ふ。此時板垣勝利を得たりとなん。

○沓掛より追分へ一里三町、沓掛家數六十四五軒許。町出口より淺間へ行道あり。麓迄一里半。麓より嶽へ一里半有と云。ふもとより山上へ二里余ありといふ。遠目にも一里半よりはなを遠くみゆ。輕井澤より沓掛迄は平路也。沓掛より追分の間の路少高下有。石あり。此間民家二ところあり。古宿とかりやとの宿なり。

追分より小田井へ一里半、追分の町家八十許。是木曾路と北國道の分るゝちまたなる故、追分と云。宿の西より北國へ行道右にあり。淺間の嶽の西の方を通る。追分より善光寺へ十八里有。越後境関川と云所迄追分より二十四里半有。越後の高田へ追分より三十餘里あり。越後より越中・加賀・越前をへて京へのぼる。是北陸道也。能登は海中へ出てたる國なれば、道筋にあらず。追分より北國道へ三里半行て小諸と云宿有。城あり。牧野周防守殿領分也。小諸・田中と通て上田へ行。是も北國道也。上田へ追分より八里半有。上田は筑摩川のほとり也。今は松平伊賀守殿居城也。越後より諸々の賣物來る故、國中にては自由也。魚鹽(いをしほ)も多と云。眞田と云所も上田のおくに有。天正の比より慶長まで、眞田安房守居城とす。是より上野の沼田をもかけ持にせしと云。沼田は上州厩橋のおく也。是よりは遠し。上田より松城・善光寺など通り越後へ行と云。川中島も道なり。姨捨山は上田より五里先に有と云。更級郡也。曾の原山は上田にありと云。小県郡也。伏屋は小諸山の事なり。松城は眞田伊豆守殿居城也。其先に丹波島と云宿あり。筑摩川をわたる。其邊川中島なり。筑摩川とさい川との中に有ゆゑに川中島と云。其邊に横田川あり、昔木曾義仲と平家の方人越後城太郎と合戰有し所なり。永禄年中武田信玄は甲州より出て、長尾謙信は越後より出合て、川中島にて合戰有。善光寺の先に戸隠山あり。餘五將軍惟茂妖物をきりし所也。高山也。山上に戸隱明神の社あり。大社也。追分より川中島迄十六里許有と云。善光寺の町北國道筋也。善光寺より越後の高田へ十三里許と云。淺間の嶽はきはめて高しといへえ共、麓の地高き故、甚高くは見えず。山上に常に烟立事こしきのいきの上るがごとく、又雲のごとし。此山半より上に草木生ぜず。一日の内しばし烟なき時有。大やけする時は、五里七里の間夥しく鳴動して、皿茶碗の類もひゞきて破る事有。焼石も飛と云。やけ石のごとくなる石、道のかたはらに多し。常の石よりかろし。大焼はまれ也。小焼は時々あり。江戸のあたりへも、此山大焼の折節は、時々灰の飛來る事ありといふ。此山は江戸の方へ近く、美濃・尾張の方へは遠し。伊勢物語に業平の道行の次第、伊勢・尾張のあたりより淺間が嶽を見て歌をよみたるやうなれども、伊勢・尾張の方よりは道遠く、山隔たりて見えず。駒が嶽は能見ゆる。業平の武藏・上野の邊にて、淺間が嶽をよめる歌を、伊勢物語をあめる人、前にかき入しにや。追分より小田井へ行には、高きよりひきゝ所に下る。凡輕井澤より和田峠の東までの間の水のながれは、皆ちくま川へ落合ひて越後にながる。松城に昔武田信玄の家臣高坂弾正昌信在城す。其時は貝津の城と號す。○桐原と云名所も川中島に有と云。

○小田井より岩村田へ一里八町、小田井は家三十四五軒許有。家あしくしてわづかなる宿也。小田井の南に高山有。西の端に飯を盛たる如くなるを飯盛が嶽といふ。其東に有を八がだけと云。峯八あるゆゑなり。又八股とも云。凡此邊四方の山上三四月迄雪多し。

○岩村田より鹽名田へ一里八町、岩村田の町家八十許有。町の入口より小諸へ行道あり。二里有。岩村田と鹽名田の間に、平塚村、ねゝ塚村、下塚原村あり。

鹽名田より八幡へ二十七町、鹽名田の町家七十許。町の出口の川を筑摩川と云。名所也。大河なり。小橋をわたせり。此川北へ流れ上田を通り、川中島をめぐり。善光寺の半里わきを流れ、越後高田に出て海へ入ると云。

八幡より望月へ三十二町、八幡の町家百許。八幡の宮有。此の間、金山坂、瓜生坂などゝ云坂あり。

望月より芦田へ一里八町、望月の町屋百軒許。町の北に古城の跡有。昔望月氏の代々居城なり。頼朝の時、雲野・望月・根津、兄弟三人也。其時よりの國士なりといふ。城山の北は大なる沼有。望月の牧は名所なり。望月の駒、望月の牧、古歌によめり。此の邊に御牧七郷とて有。此近邊皆御牧有しといふ。今はなし。望月の駒むかし名物也。今も馬の性よし。望月の神の嫌の由にて、望月並に御牧七郷の内、鹿毛の馬をおかず。他所より來りても一宿をゆるさず。望月より更科へ七里、姨捨山へ九里、善光寺へ十五里、越後高田へ廿八里あり。望月と芦田の間より北の方、高山の下に雲野平みゆる。山下の原也。望月の下三里あり。其邊に雲野村あり。是は道より見えず。昔武田信玄と村上義清と雲野平にて合戰あり。後に信玄と謙信と此所にて初度の軍あり。又道より根津村みゆる。根津甚平が居たる所也。雲野は根津村の下に有。又其邊に藤澤村有。木曾に属したりし藤澤と云士も、此所の人にや。此間より北の方に上田みゆる。兩山の間に有。望月と芦田の間、石原坂と云坂あり。又かりとり嶺とも云。

○芦田より長久保へ一里廿八町、芦田の町家百許。此邊に芦田の何某居城の跡あり。

○長窪小県郡より和田へ二里、長久保は家百餘。下和田村、長窪の南に大門村あり。其南に大門嶺あり。道よりはるかにみゆ。むかし武田信玄と信州の諏訪小笠原との合戰あり。大門嶺合戰と云。

和田より下の諏訪へ五里十六町、和田の町家百餘あり。此間に和田嶺あり。坂長し。上下おのおの二里半餘あり。東坂はやすらかにして、西坂はけはし。はなはだ險難にはあらず。三月末までみねに雪おほし。路にもなほのこれり。嶺より東七八町に、もちや村あり。嶺より西五六町に、ちや家あり。此あたり冬は雪ふかし。

下諏訪より鹽尻へ三里、下の諏訪は和田峠の坂の下也。家七百軒ばかりあり。人おほくあつまれり。坂のくだり口に下の諏訪大明神あり。これを春宮といふ。是町の北の方なり。其先町のひだりにも大明神の社あり。是秋宮という。東の方なり。大明神を正月朔日に春宮にうつし、七月朔日に秋宮にうつし奉る。毎度神輿にのせ参らす。元日には祭禮なし。七月朔日に祭あり。春宮にましますとき、秋宮は空社なり。秋宮にますときは、春宮は空社なり。上の諏訪に、下の諏訪より三里あり。上の諏訪の祭、三月酉の日なり。酉の日三あれば中を用、二あれば初を用ゆ。鹿の頭を七十五、爼にのせ神前に備ふ。又別に鹿肉を料理し、盛てそなふ。社人も其鹿の肉を食す。他人も社人よりゆるしを出せば鹿の肉をくらふ。鹿はむらむらの猟師。又立願など有もの、持来りて捧ぐ。下の諏訪のまつりには鹿をそなへず。下の諏訪の社人も鹿食のゆるしをば出す。上の諏訪には年中七十五度の祭あり。上の諏訪宮殿美麗也。社人は上下の社に各五人づゝ。祝部(はふり)も其一人なり。上下の社共に祝部各一人あり。又社僧も上下の社に各五坊有。社領は上に千石、下に五百石附けり。上下共に七年に一度毎寅申年御柱とて大祭あり。遠近四方より人多く集り、其儀式おびただし。四月申寅の日をかはるがはる用ゆ。下の諏訪より高島の城へ一里あり。諏訪安藝守殿居城なり。三萬二千石つけり。城は湖中に出て、三方は湖にて、陸の方一方より入口あり。其前になはて五町許あり。左右は沼なり。深し。まえに橋有。橋の下は川なり。船の出入り自由也。橋よりしものかたを衣が崎と云。名所也。此所に富士山の影うつると云。空海の歌に「信濃なる衣が崎に来てみれば富士の上こぐあまの釣舟」。夫木集の歌に「すはの海衣がみさきながめつゝけふ日ぐらしにおりくらすのみ」。城より上の諏訪の間一里半餘あり。湖のほとりを通らず。田中を行。上の諏訪は甲州道なり。江戸より甲州を通れば爰に出來たる。又是より甲州を通るにも下の諏訪よりわかる。諏訪の海、湊、渡、皆名所なり。古歌有、諏訪の湖は下諏訪の町の南にあり。わたり一里半あり。見渡しは二里程にみゆる。湖まどかにして東西南北同じひろさ也。深き所七尋ばかり有。まはりに浦々ありて民家多し。四方に高山あり。好景也。漁人多して魚をとる。漁舟おほし。漁舟の外船に乘ことを禁ず。此湖冬春の間氷はりて寸地も透間なく、湖一面にふさがる。年の寒温により、霜月の初中終、或師走の初より氷はりて後、人其上を通る。春も年によりて、正月の末、二月の半まで氷の上を渡る。二月半までわたれば、氷は二月末まであり。寒ければおそく消る。氷のあつさ年により八九寸、一尺二三寸あり。其上は何ほどの大木大石を置きてもわるゝ事なし。幾千人わたりてもあやうからず。氷の上すべるゆゑにかんじきをはきて通る。其上に雪つめば常の道のごとく、かんじきをはかず。わらんじ草履にても行、馬はすべるゆゑわたらず。日本國中に湖多しといへども、かくのごとく氷はる所なし。信濃は日本にて最も地高くして、寒気甚ふかき國なる故也。湖の上に冬はじめて氷はりて、第三日若氷薄ければ、第四五日の比、上の諏訪より下の諏訪の方に、よこはゞ五尺ばかり、大なる木石などの通りたる如く、氷の上にあと付てみゆる。是毎年かならず有。奇怪の事也。是を御渡と云。又神先とも云。御渡ありて後人わたる。御渡なき内は渡らず。氷なをうすきゆゑ也。年により御渡の所かはる。上の諏訪よりある事はかはりなし。下の諏訪の方に御渡ある所はかはる也。其所によりて、年の豊凶をしると云。御渡のすぢ一文字につき、或はゆがむ事有。堀川院後百首神祇伯顕仲が歌に、「すはの海の氷の上の通路は神のわたりてとくる也けり。」とよめるは、この事ならん。下諏訪に温泉三處あり。上の諏訪に四所有。此所の人は朝夕にゆあみ、或は衣を洗などするも、皆温泉を用ゆ。往來の旅人も多く此湯に入る。此地すべて浴湯をわかす事なし。湖中にも温泉出づ。其所は氷あはずといへり。養生のために入る湯と洗浴のために入湯とはかはれり。此湖氷はりて、漁人氷の下にあみを引を氷引と云。これ又奇異のわざなり。氷を一所ながくうがちて。其所よりあみを入、また其先をうがち、竹の竿を持てまへのうがちたる所より次のうがちたる所まで、あみを送りやりて、幾所もかくのごとくにうがち、あみをひろくはりて魚をとる。昔はかくの如くするすべを知らずして、冬春は漁人すなどりをせずといへり。下のすはより富士山みゆる。二十五里ばかり有。南に當る山のかたちは、駿河にて南に見るがごとし。少しもかはらず。但信濃は地たかき故、富士山甚高くは見えず。此湖の水は西の方にながれ、當國伊奈郡をへて遠州へいで、天龍川となる。此天龍川の源なり。是より天龍のわたしまで四日路あり。上の諏訪のむかひの山、鳳凰がたけと云。其西の山守屋がだけといふ。湖の艮にある山をば八がだけと云。是小田井より見えし八岐の山なり。何れも高山也。湖のまはりの小川にうぐひと云魚多して、春の比水にしたがひてのぼるを漁人とる。ひるの四つどきよるの四つどきにのぼる。のぼりて後くだる。簾をたててあみにてとる。是地の人は是を赤魚といふ。伊奈郡のさかひまで、下の諏訪より四里。伊奈郡は名所なり。伊奈郡の内、城二あり。高遠・飯田なり。高遠の城、今は内藤駿河守殿居住、三萬三千石。飯田の城は堀大和守殿居住、二萬石つく。高遠と飯田の間十里ばかり。下の諏訪より飯田へ十八里。高遠へ八里あり。川中島へ下の諏訪より十四里ばかり。越後の高田へ三十里。諏訪のあたり、夏蚊なし。少あれども人をくらはず。冬春の間雪つもる事二尺五寸ばかり。北國より雪淺しといへども、寒さは北國よりはげし。下のすはに彼岸櫻・糸櫻多し。寒國ゆゑに花ひらく事、他國より遅し。下の諏訪と鹽尻の間に、鹽尻嶺有。坂有。坂の上に社有。左に鳥居あり。此間にも糸櫻所々にあり。昔武田信玄、下の諏訪の方より出、松本の城主小笠原氏と木曾の某は、桔梗原より出て、鹽尻嶺にて、甲州勢と信濃衆と合戰有しなり。鹽尻嶺より西筑摩の郡なり。此坂より富士山みゆる。又上の諏訪、高嶋の城みゆる。

高島城址


○鹽尻筑摩郡より洗馬へ二里、鹽尻の町家百餘軒。町口右の方八幡宮あり。嶺より西は松本の城主水野隼人正殿領内也。松本城七萬石つけり。松本は鹽尻より四里北なり。平原の地にて山中にあらず。信州にて山間廣き所也。此邊の水は皆越後の方へ流る。松本より仁科を通りて、越中へ行道あり。鹽尻嶺の西の坂半より北に犬飼の清水とて有。鹽尻の少西に拮梗原とて廣き野あり。田畠なし。昔信玄の先手甘利左衛門等と松本の城主小笠原氏と拮梗原にて合戰有しなり。此軍、信玄方の勝也。鹽尻嶺の西より鳥居嶺の東までの水は、皆北へながれて筑摩川へいりて越後へくだる。

洗馬より本山へ三十町、洗馬の町家八十軒ばかり有。町の東入り口に水野隼人殿茶屋あり。西の出口に小澤川有。此北二里に今井という所あり。兼平が住し所といふ。是虚説なるか、木曾にも今井という所有。兼平住せしと云。洗馬の西に太田の清水とて水あり。木曾義仲の馬を洗ひし所也。故(かるがゆゑに)洗馬の名付と云。洗馬より松本へ四里、善光寺へ十九里、越後高田へ卅一里、川中島の内稲荷山の町迄十一里、松城へ稲荷山より五里。

○本山より贄川へ二里、本山の町家八十軒程有。町の西の出口に橋有。右に川ながる。是も木曾山より出る川也。木曾の本谷にはあらず。其先に桜澤と云所に橋有。木曾境也。木曾は尾州公の御領也。是より東は松本領也。是より西は木曾谷也。橋ぎはに坂有。それより川左にながる。其先ににゑ川有。川の渡上に尾州君より關所有。

○贄川より奈良井へ一里半、贄川の町家六七十ばかり有。町の東の入り口、右の方に番所有。おしこみ村、是より坂有。をり口に橋有。是より川を右に見る。平澤村より二町程行、奈良井橋と云有。是より川を左に見る。

○奈良井より藪原へ一里半、奈良井の町、民家百ばかり有。此町に、わん、おしき、まげ物などをぬりておほくうる。小嶺より先に小きかけはし二有。信玄と木曾何某との合戰場有。鳥居嶺合戰是也。其後天正十年武田勝頼より。今福筑前守を大將として、人數八千餘此所へ被遣。木曾左馬頭義政、信長公の御方として、七千餘人にて鳥居嶺へ馳向戰けるが、木曾勝利を得て、甲州勢をおほく討とる。鳥居嶺は是より十町程先に有。木曾殿硯水と云水有。鳥井嶺は碓日嶺より坂けはし。馬にのりがたきあやうき所有。昔木曾の御嶽の鳥居爰に有し故名付と云。今は鳥居なし。坂の西のをり口藪原の入口より少前に飛騨の高山へ行道有。高山は昔金森殿の居城也。是より十九里あり。飛騨より江戸へ行には此道を出る。是より飛騨へ行道は甚難所にて馬に乘事ならず、牛にのりて坂を上下すといふ。

○藪原より宮ノ越へ二里、藪原町家八十ばかり有。此所木曾の谷へ上より入はじめなり。是より下馬籠迄は木曾谷也。其間十七里有。誠に深山幽谷也。續日本紀、文武天皇大寶二年十二月に、始て美濃國岐蘇山道を開くよし記せり。昔は美濃に属せしなるべし。昔信濃・美濃二國の間、嶮岨にして通路なかりしかば、此時始てかけはしをかけて通路出來る事、又續日本紀元明天皇記にも見えたり。町の南に木曾川右に見ゆる。藪原より川上に荻そと云村有。材木多く出ると云。川上に荻そより外に村なし。是木曾川の水上也。凡木曾谷は北より南へむかへり。吉田村より二三町行。木曾川に橋有。是より川を左にみる。宮の越の前、徳恩寺村の川むかへ、左に八幡の宮有。是木曾義仲の社と云。其上の山を宮の尾と云。上に少し平なる所みゆる。城のごとく也。少なるほり有と云。社の下に木曾義仲の屋敷の跡有。平地也。横二町ばかり、長六町程有。其川むかへ右に徳恩寺有。巴が屋敷のあと爰に有。山吹が平も右に有。徳恩寺村の下に大橋あり。木曾川の橋也。此橋をわたれば、木曾川を右にみる。

○宮の腰より福島へ一里半、宮の腰家數五十軒ばかり有。宮の越より三町程行ば、道より左に樋口次郎が屋敷の跡有。平地也。樋口が谷といふ。宮の腰より一里下に上田と云所あり。兼平が父木曾の仲三兼遠が屋敷の跡あり。木曾義仲の父帯刀先生義賢、悪源太義平にころされし時、義仲二歳なりしを、母抱て信濃にくだり、木曾の仲三兼遠を頼しかば、兼遠養育してひとゝなりぬ。東鑑に、木曾乳母夫仲三權守兼遠とあり。宮の腰の半里下に原野と云町有。其の左の上の山を野上という。高山にて材木多し。原野の少し下左にひろき所あり。其上に駒が嶽あり。駒が嶽は宮の腰の一里下に有。山上に駒に似たる大石有故名付。下よりみゆ。此山に峯三有。駒石なく取分高きを大嶽といふ。極て大なる高山也。故に遠方よりよくみゆ。是も木曾山也。山上の雪、六月土用前に消て、八月に又つもる。駒がたけの麓大原と云。其所に川ながる。駒がたけより出る水なり。此山の東は伊奈郡なり。

○福島より上松へ二里半、福島の町家數百二三十軒ばかり。木曾山中にかぎらず、信濃路にて尤もよき町也。諸々の賣物などもあり。町の入り口左の方に、公儀より御番所有。此所にて東へ行者の、鐡砲と女とをいましめてとむる事、遠州荒江のごとし。山村甚平と云人、尾州公の與力なるが、此所に居住せり。知行七千石。先祖は木曾義政の家人なり。町のむかいに興禅寺とて禅寺有り。板敷野有。是より七八町下りて木曾のかけ橋有。木曾川にかけたる橋にはあらず。山のそば道の絶えたる所にかけたる橋也。右の方は木曾川のきはなり。横二間長さ十間ある板橋也。欄干有り、兩旁は石垣をつき、むかしはあやうき所也けらし。今は尾州君より此橋を堅固にかけ給て、聊あやうき事なし。川むかひ西の方に高き山有。川には大なる深き淵有。其邊川ばたに大なる岩多し。好景也。福島の下に、西の方より別に大なる川ながれ出る谷有。藪原の方よりながるゝ。木曾の本谷よりは水猶おほし。おんたけ川と云。おんたけとは木曾の御嶽なり。其谷の奥に材木おひたゞし。福島より其谷の川上は十里ばかり有。此川より材木多く出る。數里程上の方に、木曾の御たけとて、駒がたけより大にして高き山あり。北にあたれり。つねに雪おほき山なり。富士・淺間にもならぶ程の山也。所の人はおんたけと云。御嶽なり。川の東道の左に御たけの鳥井有。其地を合渡と云。御たけ川と本谷の川と行合なれば、合渡と名づく。此地より御たけみゆ。凡木曾山中は材木多き事、いふに及ず。檜・さはら・松・眞木・けやき多し。杉なし。けやきはおもくして水にうかばず。故に下に出す事成がたし。御たけに眞木誠に多し。山中にも、道のほとりにも、とちの木多し。大木有。葉はほうの木に似たり。枝はすぐにしてはびこれり。實あり。棟子のごとし。土民とりて粉にし、餅として飯にあてゝ食す。尤飢饉をたすく。其木横紋ありて、器に作るべしといへども、尾州より禁制有てきらず。實を民の食物にするゆゑ也。材木を切る杣人は、尾州君より和泉・紀伊國・近江の人を傭て遺はさる。毎年春の雪消、二三月山に入りて十月に出る。およそ幾千百人といふことをしらず。春は山にいる杣人、まさかりなど持て、毎日引もきらず、上方より木曾へ通る。此杣人共山中に家有て居住す。木をきり材木に削、或はくれにわりて、長四尺計なる、小き木を川へながせば、いくらともなく、水に隨てながれ下る。川中の岩にかゝりてとゞまりたるは、筏に乘たるもの來ておとすといふ。舟はもとより水はやく、石高ければ通らず。此ながるゝ木ども木曾を過て、美濃の内大田の四里川上に、錦織と云所にいたる。此所に、つねに大綱をはりて、ひとつも下へながさずせきとどむ。爰にて筏につくり、桑名・熱田へくだす。熱田の内西の方に、白鳥といふ舟のつく所にくだす。其地にて商人買とり、諸國へうりつかはす。奉行二人、つねに錦織に居て、此事をつかさどる。錦織には町なし。木曾にてながれ木をとる事、はなはだ制禁あり。故に一本をもぬすみとるものなし。

木曾路之記 

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